シカにまつわる伝説・逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:18 UTC 版)
世界各地の山野に数多く生息していたシカ科の動物はほとんどの民族の文化に対して古くから重要な影響を与えていたと思われる。後世の文化においては、シカは「俊敏」「非力」などの象徴として、また時には峻険な山岳地の象徴として用いられることがある(カモシカも参照)。 ギリシア神話では、月の女神アルテミスの水浴を見たアクタイオーンが鹿に姿を変えられている。 道教の伝承に登場する仙人がしばしば乗騎とするのが白鹿である。太上老君は青牛を乗騎とするが、白鹿を乗騎としたという伝承もある。 トナカイは古来ソリを引く使役や荷役にも利用され、クリスマスにサンタクロースのソリを引く『赤鼻のトナカイ』の伝説にもなった。 鹿島神宮・春日大社などで神使とされる。古事記において、オオクニヌシに国譲りをさせる際、アマテラスは使者としてアメノオハバリを選び、その伝令にアメノカク(天迦久)を派遣したとあり、このアメノカクが鹿の神とされる(「迦久」は鹿児を意味する)。アメノオハバリは自分の代わりに息子のタケミカヅチをオオクニヌシのもとに差し向け国譲りを承諾させるが、このタケミカヅチが鹿島神宮の祭神であり、その後平城京鎮護のために春日大社にも分霊された。 鵯越:12世紀末、治承・寿永の乱(源平合戦)の折りに一ノ谷に陣を構えた平家の軍を攻めるため源氏は、海岸沿いから正面を攻める軍勢と背後の山地から奇襲を行う軍勢の二手に分かれた。源義経率いる奇襲部隊が目指した平氏の背後の山は「鵯越(ひよどりごえ)」と呼ばれる崖のごとき急坂で、とても軍の主軸である騎馬を下ろせるルートではないと思われた。しかし現地の者からこの鵯越をシカが通っていることを聞いた義経は「鹿も四つ足、馬も四つ足、鹿が越す坂ならば、馬も越せぬ道理はない」とこの急坂を駆け下りるよう軍勢に指示した。これが「鵯越の逆落とし」である。このルートからの奇襲など全く念頭になかった平家は3千騎とも言われる源氏の奇襲に慌てふためき、一気に総崩れとなった。ただし現在の六甲山には鹿は生息していない。また過去に生息していたかどうかも不明。 児玉党の武士である富田親家は、和田合戦時、和田氏軍に味方し、幕府軍に捕えられるも、源実朝の御前で奥州産の大鹿の角を一度に2本へし折る力芸を見せたことで、助命され、領地まで与えられている。 鹿の遠音:古来。鹿の遠音を愛でるのは、文化人・風流人の嗜みであった。1835年(天保6)刊行の『鳩翁道話』(柴田鳩翁 口述)にはこんな逸話が載る。ある秋の夜、男数人が連れ立って知り合いの和尚のいる山寺を訪ね、鹿の音を愛でる酒宴を催した。和歌を詠んだり詩を作ったりして待ち侘びたが、その夜に限って鹿が一向に鳴かない。そのうち、ひとりが「ウチの二十二歳の息子ときたら、遊所通いばかりして商売は上の空。先行きが心配で、今宵の酒は飲んでも飲んでもちっとも酔えない」と愚痴った。すると別の男は「あなたの稼いだ銭金を実の息子さんがお使いになる、大いに結構じゃございませんか。あたしなぞは長年、信をおいてきた使用人に、つい先ごろ店の金を持ち逃げされました」と嘆いた。これを聞いた別のひとりは「所詮カネで解決できるんだから、お二人はまだマシですよ。ウチは嫁姑の仲が悪く、間に立たされた私は毎日辛くて・・・」と号泣した。やがて、ある人がはっと我に返り「皆さん、私たちはこんな話をするために今宵ここへ集まったのではありません。それにしても、いつになったら鹿が鳴いてくれるのか」とぼやきながら障子を開けると、庭には一頭の大鹿がぬっと立っていた。驚いた男が「お前さん、ここで一体何をしておる?」と訊ねると、大鹿が言うには「人間がなくのを聴いておりました。」 本多忠勝 - 鹿の角を象った「鹿角脇立兜」で知られる。
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