コケシ、『忍風』、白土ブーム
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「つげ義春」の記事における「コケシ、『忍風』、白土ブーム」の解説
1960年、コケシという渾名の女性と知り合い、大塚のアパートで同棲を始める。最も多作の時期ともなった。この時代の生活経験は『チーコ』(1966年)や『別離』(1987年)の元ネタとなった。しかし、漫画を描きながら内職をしたり、ポーラ化粧品の訪問販売をしていた彼女と一緒に、化粧品を詰めた重いトランクを下げ、歩き回ったりしていた。 その頃、1959年の年末か年の明けた頃に白土の『忍者武芸帖』がヒットし羽振りの良かった三洋社の社長で初対面の長井勝一が『忍者武芸帖』の第一巻を持って現れ、「忍風」という雑誌を出すから描いてくれ、と頼まれ、1960年2月から9月まで「武蔵秘話」シリーズ6作を描く。絵柄は白土の真似である。6月の第4号には本人会心の『盲刃』、11月の「別冊4」には傑作『鬼面石』を掲載した。『鬼面石』の原稿を持って行った時に三洋社で初めて白土三平と会う。白土は机の上に置いてあるその原稿をだまって読んでいたという。三洋社の金払いが悪くなり、11月に若木書房から「忍者武芸帖」を真似した単行本『忍者秘帖1』を発行。この時は弟の忠男を会社を辞めさせて数ヶ月手伝わせている。結局1961年5月まで4冊発行。三洋社の仕事は『落武者』(1961年2月)が最後となる。自身が描きたい短編は発表の場所がなく、生活のため若木書房に単行本(長編)を描くが、貸本漫画でふたりの生計を立てることは難しく、頭の中はマンガの案のことと、彼女とのゴタゴタで一杯で安保闘争も知らぬまま貧しい生活を送る。 1961年、単行本『忍者くん』(1961年7月)の途中まで描いている時にアパートを追い出され、彼女と別れる。原因はコケシの浮気であった。彼女は一時、近所の貸本屋で一人で店番をしていたが、店を無断で休んでなじみ客とデートをしていた。彼女を貧困に巻き込んだつげは責めることもできず、別れた後は錦糸町の元の下宿に戻りデザイナーの「木村さん」の三畳の部屋に居候する。62年は家主が経営する装飾店に勤めて、フスマ張り替えなどの仕事を手伝う。同年、生きていくのが面倒になりアパートで睡眠薬「ブロバリン」を大量に飲み自殺をはかるが、病院に担ぎ込まれ未遂に終わる。家主の勧めで創価学会に入信させられたが、宗教に興味がなく、不真面目な信者であった。 1963年、装飾店が倒産し、1年半のブランクを経てトップ社の『野盗の砦』(1963年4月)から再び漫画を描くようになったが、娯楽作品を書くことに苦痛を覚えるようになる。貸本漫画家として一応の名声はあり、この時代でも原稿料は1作3万円と水木しげるより高かった。貸本漫画業界自体が衰退していくと辰巳ヨシヒロなどの勧めもあって、従来の時代劇や推理物に加えてSFや青春ものなど様々なジャンルに手を染めるようになり、一方、さいとう・たかを、佐藤まさあき、白土三平などこの頃の人気漫画家の絵柄を真似ることも要求される。仕事仲間であった深井国がしばらく同居する。1964年、のちに『池袋百点会』(1984年)に「ランボウ」として描かれる喫茶店「ブルボン」通いが続く。
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