ギリシア独立戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)
詳細は「ギリシャ独立戦争」を参照 「ギリシャ第一共和政」および「ナヴァリノの海戦」も参照 ヨーロッパにおけるナショナリズム、国民意識の勃興と国民国家建設の潮流の影響を受け、19世紀にはバルカン半島においても各地で政治的な民族が形成されていった。とりわけ「ヨーロッパの源流」たる古代ギリシアに自らの起源を見出したギリシア人は、オスマン帝国時代の経済的繁栄も相まって西ヨーロッパの文化的・知的影響を強く受け、他のバルカンの民族に比べ早期から明確な民族意識を獲得していた。バルカン半島ではこうした近代的な「民族」の成立は、オスマン帝国の分解と同時並行的に進み、バルカン半島のキリスト教を奉じる民族はオスマン帝国の「圧政」からの独立を目指していった。 1821年3月、ロシア帝国領内のギリシア商人によって結成された秘密結社フィリキ・エテリアがアレクサンドロス・イプシランディスの指揮の下でモルドヴァに侵入し、ギリシア独立戦争が勃発した。この戦争がはじまると、1821年6月、クレタ島のキサモス(英語版)で主教と30人以上のキリスト教徒が虐殺され、カンディアでも聖職者が殺害された。これに激高したキリスト教徒たちはスファキアを中心に蜂起し、1821年11月にはビザンツ帝国のコムネノス家の末裔という触れ込みのロシア系ギリシア人、ミハイル・コムネノス・アフェンドゥリエフ(ミカエル・コムネノス・アフェントゥリス Michael Komunenós Afentúolief)が指導者として送り込まれ、統一的指導が図られた。翌1822年にはクレタ島の反乱軍はオスマン帝国軍を圧倒しほとんど全島を制圧した。「トルコ人」たちは都市部の要塞に追い込まれ、ギリシア人(キリスト教徒)たちは1822年5月に新生ギリシア国家とのエノシス(英語版)(統合)を決議した。 モレア(ペロポネソス半島)でも劣勢に立たされていたオスマン帝国のスルタン・マフムト2世は、クレタ島に注力する余裕がなく、1822年やむなく事実上独立勢力を築き上げていたエジプト総督(ワーリー)ムハンマド・アリーにクレタ島の秩序回復を求め、行政権を委ねた。ムハンマド・アリーは娘婿ハサン・パシャをアルバニア兵と共に派遣し、彼らはクレタのギリシア人たちがエノシスを決議していたのとほとんど同時期にスーダ港に上陸した。エジプト軍は東部の反乱を鎮静化させたが、西部では反乱の勢いはかえって強まった。1823年に新たにエジプト軍の司令官になったフサイン・ベイは村を焼き払い住民を追放するなど強硬な手段で鎮圧にあたり、反乱軍は追い詰められて1824年にはクレタ島からの脱出を余儀なくされた。エジプト軍は1825年2月にはクレタ島を占領下に置き、その後モレアの反乱鎮圧にも加わって、ムハンマド・アリーの息子イブラーヒーム・パシャの指揮の下、アテネを占領するなど大きな戦果を挙げた。 状況の推移を見守っていたイギリス・フランス・ロシアは、自国以外のいずれかの国が東地中海で勢力を拡大する可能性を警戒しており、介入の機運が高まった。1827年8月、3国は正式にギリシア独立戦争に介入し、「帆船時代の最後の大海戦」とも言われる1827年10月のナヴァリノの海戦の結果、オスマン帝国軍とエジプト軍は敗北し、その後エジプト軍はクレタ島から撤収した。以降、バルカン半島とアナトリア東部におけるロシア軍の攻勢によってオスマン帝国軍は総崩れとなり(露土戦争 (1828年-1829年))、オスマン帝国そのものの崩壊を懸念したイギリス・フランスは調停に乗り出し、1829年9月14日にアドリアノープル条約が締結されてギリシアの自治が承認された。翌1830年2月3日ギリシアは正式に独立し、王国となることが決定された。
※この「ギリシア独立戦争」の解説は、「クレタ島の歴史」の解説の一部です。
「ギリシア独立戦争」を含む「クレタ島の歴史」の記事については、「クレタ島の歴史」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からギリシア独立戦争を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- ギリシア独立戦争のページへのリンク