ギリシア殖民都市の僭主達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:28 UTC 版)
「セリヌス包囲戦」の記事における「ギリシア殖民都市の僭主達」の解説
戦死したドリエウスの復讐戦というアピールは、ドリエウスの弟であるレオニダス(後のスパルタ王でテルモピュライの戦いの英雄)も含めて、ギリシア本土には無視された。カルタゴもサルティニアの征服に忙しかったが、その間にシケリアのギリシア植民地は僭主によって支配されるようになった。特にゲラ(現在のジェーラ)、アクラガス、イタリアのレギオン(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)の僭主達は、紀元前505年から紀元前480年にかけて先住民あるいは他のギリシア殖民都市を犠牲にしてその領域の拡大を試みた。中でも最も成功を収めたのはゲラであった。ゲラの僭主クレアンデルやヒポクラテスはシケル人とイオニア人の領域に侵攻し、紀元前490年までにザンクル(現在のメッシーナ)、レオンティノイ(現在のレンティーニ)、カタナ(現在のカターニア)およびナクソスはゲラが支配することとなった。シュラクサイはギリシア本土のコリントスの支援でヒポクラテスを撃退したが、その後継者であるゲロンはシュラクサイを占領し、そこを首都とした。アクラガスもシカン人とシケル人の領域を侵食し、僭主であるテロンは将来の紛争を避けるためにゲロンと同盟を結んだ。ゲラの拡大にともなってイオニア人はナクソスとカタナを失ったためヒメラとレギオンは同盟を結んだ。レギオンの僭主アナクシラスはザンクルをシュラクサイの支配から解放し自身の出身地からメッセネと改名し、ヒメラの僭主テリルスの娘と結婚した。ヒメラとレギオンはカルタゴとも条約を結んだ。テリルスはさらに一歩進んでカルタゴの「王」ハミルカル・マゴ(ハミルカル1世、マゴ朝第3代)と賓客関係となった。 したがって、紀元前483年頃には、シケリアには3つの勢力が微妙に均衡していた。カルタゴはエリミ人とセリヌスの間に平和を維持しており、北部のイオニア人殖民都市(ヒメラとレギオンが指導的地位にあった)は南部のドーリア人殖民都市(シュラクサイとアクラガスが指導的立場)と相対していた。この状況は紀元前480年にアクラガスのテロンがヒメラ市民の支援を受けてテリルスを退位させ、ヒメラの支配権を握ったことにより変化した。カルタゴはテルリスの娘婿であるアナクシラスに促されてシケリアに介入したが、紀元前480年にハミルカル・マゴが率いるシケリア遠征軍は、ゲロンとテロンの連合軍に第一次ヒメラの戦いで敗北した。敗北はしたものの、シケリア西部のカルタゴ支配地域は影響を受けなかった。その後70年間カルタゴはシケリアに介入せず、北アフリカ、サルディニアおよびイベリア半島での覇権確立に努めていた。 カルタゴの敗北は、シケリアに繁栄をもたらしたが、平和はもたらさなかった。この当時のシケリアの政治的状況を見ると、いくつかの都市で僭主が追放され民主制や寡頭制に変わっている。シュラクサイの影響力は低下し、ギリシア殖民都市間の内輪もめが起こっていた。この紛争に介入するため、アテナイは紀元前427年、425年、424年にシケリアに艦隊を送ったが、これに対抗するためにシュラクサイの将軍ヘルモクラテスの呼びかけにより汎シケリア同盟が成立した。ただし、同盟はあくまでアテナイに抵抗するためのものであり、シケリアの殖民都市間および先住民との平和維持は目的外であった。皮肉なことに、敗北したカルタゴとエリミ人は、第一次ヒメラの戦いから紀元前415年まで、比較的平和を謳歌していた。
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