ギャンツェへの進軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 04:57 UTC 版)
「イギリスのチベット遠征」の記事における「ギャンツェへの進軍」の解説
最初の障壁を突破して勢いに乗ったマクドナルドの軍は、翌週にチベット軍が放棄していったカングマの防衛線を通過した。4月9日、イギリス軍は後にRed Idol Gorgeと呼ばれることになる峠に差し掛かったが、ここにはチベット軍の要塞が築かれ通行を阻んでいた。マクドナルドはグルカ部隊に、急勾配の斜面に上って崖に身を隠しているチベット兵を追い落とすよう命じた。しかしこの作戦が始まって間もなく、強烈な嵐が起こってグルカ部隊との音信が途絶えた。数時間後に伝えられたところによると、この先遣隊は峠を降りていたときに射撃を受け、散漫な応酬が起きていた。正午ごろに嵐がおさまると、グルカ部隊がチベット軍よりも上手に陣取ることに成功していたことが明らかになった。この結果、上から撃ちおろすグルカ兵と下から攻めあがってくるシーク部隊の挟み撃ちにあったチベット軍は後退を強いられ、さらにそこでイギリス軍の激しい砲撃にさらされた。チベット軍は200人の遺体を残しつつも、規律を乱さず撤退した。イギリス側の損害は今回も無視できるほどだった。 "Red Idol Gorge"の戦いに勝ったイギリス軍は、4月11日にギャンツェに到達した。すでに街の守備隊は撤退しており、市門はマクドナルドの軍の前に開け放たれていた。ヤングハズバンドは父への手紙で「私がいつも言っていたように、チベット人は羊以外の何物でもない。」と書いている。ギャンツェの住民がいつも通りの商売を続ける中、やってきた西洋人たちはパンコル・チューデ(白居寺)を見聞した。このギャンツェを代表する寺は、10万柱の神をまつり、釈迦が初めて悟りを開いたブッダガヤの大菩提寺を模した9層の仏塔を有していた。小像や巻物などは、戦利品としてイギリス将校らが山分けした。ヤングハズバンドの随員らはチャングロ家(Changlo)という貴族の邸宅や庭を宿舎とし、以後この「チャングロの邸宅」がヤングハズバンドの任務の本部となり、ダライ・ラマからの使者との謁見や会談もここで行われた。歴史家チャールズ・アレンによれば、ここからしばらくは遠征のなかでも「のどかな時期」だった。将校たちは邸宅の庭で野菜を植えたり、護衛もつけないで街を歩き回ったりし、釣りや狩猟に出かけることすらあった。軍医で博愛主義者だったハーバート・ジェームズ・ウォルトン大佐は、住民のために医療を提供した。特によく知られている話として、彼はチベットで多くの人が悩んでいた口唇口蓋裂を治療する手術を披露した。ギャンツェ到着から5日後、マクドナルドはチャングロの邸宅の安全を守るため、本軍を新チュンビ(New Chumbi)まで後退させ補給線の保全にあたらせた。 ヤングハズバンドはラサ攻略に取り掛かるためにロンドンへっ電報を打ったが、返信が無かった。イギリス本国ではチュミシェンコの虐殺が「衝撃と不安の増大」を招いていた。スペクテーター誌やパンチ誌は、「半武装の人々」を「魅力的な技術による兵器の数々」を用いて排除したことに批判的な姿勢を示した。ホワイトホールでは、内閣は「揃って顔を伏せ続けていた」。そのころ、ヤングハズバンドはチベット軍がギャンツェの東方45マイルにあるカロ・ラ(Karo La)に集結しているという情報を得ていた。 チャングロの邸宅の護衛にあたっていたハーバート・ブランダー(Herbert Brander)中佐は、馬で2日の距離にあるカロを攻撃することにした。彼はマクドナルド准将ではなくヤングハズバンドに相談して、その賛同を得た。この談議に同席していたタイムズ紙の特派員パーシヴァル・ランドンは、彼らのチベット人を攻撃する計画は「無思慮」で「これまで我ら自身が守ってきた慎重な道程からまったく逸脱している」と受け取った。ブランダーの計画は5月3日に電信で新チュンビのマクドナルドに伝えられた。彼はブランダーを止めようとしたが、時すでに遅かった。5月5日から6日にかけてのカロ・ラの戦いは、おそらく歴史上もっとも高い標高で起きた戦闘であった。ブランダーの部隊は5700メートルを超える高地に登り、第8グルカ隊のライフル兵や第32シーク工兵隊のセポイらの活躍により、チベット軍に勝利した。
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