キエフ・ルーシ
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「ルーシ人」という用語の初出は、911年と945年のルーシ・ビザンツ諸条約[要曖昧さ回避]である。この用語は、当初キエフ大公国の支配階級であった北欧系ルーシ族(ヴァリャーグ)を指していたが、10世紀に当国の東欧系スラヴ人、特にキエフ・チェルニーヒウ・ペレヤスラウの地域に住む住民を意味するようになった。11世紀から14世紀にかけては、キエフ大公国とその後継者ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の人々が「ルーシ人」と呼ばれた。 ルーシ人自身の手によっては、彼らの年代記である『過ぎし年月の物語』において単数形の Русинъ という形で言及される。同様に、1229年の『スモレンスク書簡』においては рѹсинъ という形で言及される。 13世紀にキエフ大公国がモンゴル帝国によって滅ぼされ、14世紀末にハールィチ・ヴォルィーニ大公国がリトアニア大公国とポーランド王国によって分割された結果、ルーシ人の居住地域はリトアニアとポーランドの支配下におかれた。ルーシ人はもっぱら正教徒であり、異教徒のリトアニア人とカトリックのポーランド人と異なる文化を持っていたので、数世紀にわたり他国の支配下で独自性を保った。
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キエフ・ルーシ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:51 UTC 版)
後の時代のルーシ人が残した年代記によると、862年にノルマン人のリューリクが交易都市ノヴゴロドの公(クニャージ)となり、リューリクの一族が東スラヴの居住地域に支配を広げていく過程で、東スラヴ人の間でいくつかの国家が形成され始めた。これらの国々があったこの地域は、リューリクの属する部族ルスの名前にちなんでルーシと呼ばれるようになるが、このルーシという地域名が、のちに「ロシア」という国名と結びつけられるようになる。 しかし「ロシア」という言葉は、中世時代のギリシア人がルーシに対して使った言葉であって、ルーシ人自身は自分たちの国を「ルーシ」と呼んでいた。やはり年代記の伝えるところによると、882年にリューリクの子イーゴリは一族オレーグの助けによりドニエプル川中流の交易都市キエフを征服し、キエフをルーシの中心に定めたという。 史実としての真偽はともかくとして、バルト海に近いノヴゴロドからキエフを経て黒海に出る道が同じ一族に属する支配者の手によって統合された。オレーグとイーゴリは周辺の諸部族の間に勢力を広げ、イーゴリを始祖とする歴代のキエフ公のもとにルーシへと国家権力を形成していった。この一族はノルマン系であるとされているが、10世紀までには、スラヴ系へと急速に同化していったと言われている。 10世紀末にはキエフ公のウラジーミル大公が東ローマ帝国からキリスト教を受容してルーシは国をあげて正教会の信徒となり(cf. キエフ・ルーシのキリスト教化(英語版))、スラヴ語を書きあらわすための文字としてキリル文字がもたらされるなど、正教世界の進んだ文化がルーシへと取り入れられていった。 また、ウラジーミルは依然として様々な勢力が入り乱れていたルーシをキエフ大公国のもとにほぼ統一することに成功するが、同時に息子たちの間に支配下の都市を分封して公に立てたために、これ以降、ルーシは本家筋であるキエフ大公国を盟主としつつも、リューリク・イーゴリ兄弟を始祖とするリューリク家の成員を公とする数多くの小国家へと再び分割され、12世紀頃にはキエフ公国の衰退にともなってウラジーミル大公国を中心とする北東ルーシ諸公国、北西ルーシで貴族共和制を実現したノヴゴロド公国、ルーシ西部を支配し、ルーシの都キエフを支配しつづけたハールィチ・ヴォルィーニ公国などのいくつかの地域ごとの政治的なまとまりへと分裂していった。
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