ガリカニスムの展開と王権神授説
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ガリカニスムの展開と王権神授説」の解説
「王権神授説」および「ガリカニスム」も参照 歴代のフランス王は自国の教会の管理権と権益を自らの支配下に置こうと腐心し、これを「ガリカニスム(フランス教会自立主義)」と称するが、他方ではそれと並行して伝統的なカトリックの教義を保持することにも努めた。その点からいってルイ14世親政下で権威的存在となったのは、上述したジャック=ベニーニュ・ボシュエ神父であった。宮廷説教家にして国王の顧問であると同時に王権神授説の熱心な提唱者でもあるボシュエの雄弁な説教の文体は、初期のフランス文学を代表する典型的な散文であり、フェヌロン大司教らの説教家とともに当時のカトリック説教史における重要な時代をつくった。ジャンセニスムやキエティスムが排斥されたのはカトリックの伝統を保持するためであったが、キエティスムを擁護したフェヌロンは上述したとおり、職を追われた。 1682年、ルイ14世は聖職者会議にボシュエの「四箇条の宣言(フランス語版)」を受諾させ、教会を王権の支配下に置くことに成功した。これはガリカニスムの現れであり、教会会議をローマ教皇の権威上に置いてフランスの教会をローマから独立させるものであった。ルイ14世は「レガール」(国王特権)によって国王が聖職者への任命権をもつことを目指したが、教皇インノケンティウス11世はただちに「四箇条」の無効を宣言し、ルイ14世に厳しく抗議した。約15年間、教皇庁はフランス内での世俗権力による教会支配の企てを認めず、国王が任命した候補者を司教に任命しなかったために多くの司教座が空位となり、ルイ14世は1516年のコンコルダートに含まれない特権への権利の主張については取り下げざるを得なくなった。 王権神授説は王権をはじめとする君主権とは神から直接授けられたものであり、それゆえ国民は臣民としてこれに絶対服従する義務があるという教説で、17世紀以前のヨーロッパでは貴族や聖職者の特権も強固に残り、国家や君主の権力基盤が脆弱だったところから君主の側によって強く求められたうえ、支持されてきた政治思想である。ポリティークの思想家であるジャン・ボダンの主権理論にその萌芽が認められ、17世紀初頭のイギリスではステュアート朝のジェームズ1世(詳細は後述)の登場とともに市民権を獲得した。しかし、国王は聖俗両権を神によって授けられているという思想は、ローマ教皇庁の決して認めるところではなかった。1632年には法服貴族のカルダン・ル・ブレが『国王の主権について』を上梓し、そのなかで王権は神から直接授けられたもので、国王は他人の同意も必要とせずに自由に法を作って解釈し、廃棄できると説いた。イングランドのロバート・フィルマーは、清教徒革命前後に『制限王政の無政府状態』(1648年)、『絶対王権の必要』(1648年)、『政府起源論』(1652年)などを執筆し、これを定式化した。フィルマーの主著『パトリアーカ(英語版)』(1680年公刊)には、『旧約聖書』を根拠として神が人類の祖先であるアダムに家族や子孫などを支配する権利を授けたのであり、その権利は代々の家父長に受け継がれて王権につらなるという考えが示されている。王権神授説の大成者として知られるボシュエは、その著作『世界史叙説』(1685年)において、「神は国王を使者としており、国王を通じて人びとを支配している。……国王の人格は神聖であり、彼にさからうことは神を冒涜することである」と記した。
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