ガウスの貢献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 03:21 UTC 版)
17歳のガウス (1777 - 1855) は平方剰余の相互法則を示した。翌1796年3月30日、ガウスは17次の円分方程式を解くというきわめて算術的な研究の過程で、古来から未解決の幾何学的問題であった定規とコンパスによる正十七角形の作図が可能であることに気付く。最終的に1801年、ガウスは "Disquisitiones Arithmeticae"(『算術の研究』)を著して数学王子と渾名された。 これら二つの大きな発見は共に、フェルマーやオイラーが用いたような道具よりもより抽象的で明確な道具を用いて、証明に掛かる大きな負担を軽減するという過程のなかで為されており、その過程は合同算術として結実する。 ガウスは整数係数多項式をつかって整数概念の拡張を行い、今日ではガウス整数と呼ばれる数の集合を得ている。ディリクレ (1805 - 1859) も類似の整数の集合を発見しており(それはディリクレ整数と呼ばれる)、それを足がかりとしてフェルマーの大定理の n = 5 の場合を証明した。その論文は1825年に科学アカデミーに提出され、ルジャンドルの数ヶ月に亘る査読を受けた後に受理されている そのころフェルマーの整数問題は、最終定理を除くすべてが解決されていたが、新しい予想も現われていた。たとえば、a と b が互いに素ならば初項 a で公差が b の等差数列のなかに素数は存在するか、存在するとしたらどのくらい含まれるか、というものである。ガウスやルジャンドルらの数学者は無限に存在するだろうと考えたが、平方剰余の相互法則と同様の高次の冪剰余に対する相互法則が必要であり、証明はできなかった。 その後も合同算術は発展を続け、ディリクレはディリクレ指標の概念や解析数論の基礎を固めることによって算術級数定理を証明した。その証明は合同算術の珠玉ともいえるもので、ヤコビ (1804 - 1851) は兄弟への手紙に .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} En appliquant les séries de Fourier à la théorie des nombres, Dirichlet a récemment trouvé des résultats atteignant les sommets de la perspicacité humaine.(フーリエ級数を数論に応用することで、ディリクレは人類の英知の頂点とも言える結果に到達した) と記している。今では有限可換群上の調和解析から得られる道具を用いて証明することができるが、ルジャンドルはそういった道具は用いておらず、今ではルジャンドル記号と呼ばれる概念を定式化することにより、平方剰余の相互法則と同様の計算を実数に対して行うことで証明した。ガウスは1801年の著書で最終的にこの方法を複素数にまで拡張した。この計算は ガウス和とガウス周期と呼ばれる。 19世紀にはこれらの数学は超越数論と呼ばれ、算術 (arithmetic) という呼称もより一般の数学を指す言葉として残ったが、1830年にルジャンドルは、この十分に発展を遂げた分野を表すため、数論 (theory of numbers) という呼称を考案した。ガウスのころの算術とは異なる新しい手法が用いられるようになり、代数的整数-論と解析的-数論という分科が現れるようになると、超越数の登場もあって、超越数論という呼称は過去のものとなっていった。
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