カーペット喧嘩と共作の終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 07:42 UTC 版)
「ウィリアム・S・ギルバート」の記事における「カーペット喧嘩と共作の終了」の解説
ギルバートとサリヴァンは、お互いに自分の役割が相手に従属させられていると見ており、また性格的にも真反対だったこともあったので、仕事の関係はぎくしゃくしたものがあった。ギルバートは対立的でひどく気難しいところがあったが、異常なほど親切に振る舞う方だった。一方サリヴァンは対立を避ける方だった。さらにギルバートは、社会的秩序が逆転する「めちゃくちゃ」状況のリブレットが体に染みついていた。時間の経過と共にこれらの主題は、サリヴァンが目指すリアリズムや感情的な内容と対立する機会が増えていった。加えて、ギルバートの政治風刺が特権階級のサークルで笑いを誘ったのに対し、サリヴァンはその友人やパトロンになる裕福で肩書きを持った人々の中で洗練されることに熱心だった。 ギルバートとサリヴァンはその共作を通じて、主題の選択に関して何度か意見が合わないことがあった。『ペンザンスの海賊』から『ゴンドラの船頭達』までの9作で、『プリンセス・アイダ』と『Ruddigore』が他の作品より成功しなかったとき、サリヴァンはギルバートの筋が繰り返しであり、オペラは芸術的な面で満足できないと語り、共作を止めることを求めた。この2人の芸術家が互いの違いを論じている間、カートは彼等の旧作の再演でサヴォイ劇場を維持し続けた。いずれのときも数か月の休止があった後で、ギルバートがサリヴァンの異議に適うリブレットを制作したので、共同関係はうまく継続していった。 しかし、1890年、『ゴンドラの船頭達』の上演中に、ギルバートがカートに制作費用について文句を言った。ギルバートが反発した事項の中でも、サヴォイ劇場のロビーに新しいカーペットを敷いて、その費用をカートが2人の共同経営者に請求したことが発端だった。ギルバートはそれが保守費であり。カートのみが支払うべきものと考えた。ギルバートはその勘定の再考を拒んだカートと対立した。ギルバートは怒って飛び出し、サリヴァンに宛てて「彼が昇っていった梯子を蹴飛ばさなかったのは誤りだったというメモを彼の所に残してきた」と記した。ヘレン・カートはギルバートがカートに宛てて「私が思っても居なかった方法で、貴方は召使いを怒らせるようにしていたのだ」と書いたと記した。学者のアンドリュー・クロウザーは次のように説明している。 「 結局、カーペットは言い合いになった多くの事項の1つに過ぎず、本当の問題はこれら事項の単なる金銭的価値にあるのではなく、カートがギルバートとサリヴァンの財政事情に信を置けたかということである。ギルバートは、カートが会計においてせいぜい一連の深刻な失敗をしただけでなく、最悪の場合は他人を騙そうと図っていると主張した。現時点でその正邪を裁くのは容易でないが、当時の会計に大変な悪さがあったことはかなりはっきりしている。ギルバートはこの「喧嘩」から1年が経った1891年5月28日にサリヴァンに宛てて、カートは「電灯代だけでも1,000ポンド近い意図しない過請求があった」ことを認めたと記していた。 」 ギルバートが訴訟を起こし、1891年に『ゴンドラの船頭達』が終演になった後で、そのリブレットに対する興行権を引き揚げ、サヴォイ劇場のためにはこれ以上オペラを書かないと誓った。ギルバートは次に、アルフレッド・セリアと『The Mountebanks』を書き、ジョージ・グロススミスとは失敗作の『Haste to the Wedding』を書いた。サリヴァンの方はシドニー・グランディと『Haddon Hall』を書いた。ギルバートは最終的に勝訴し正当化されたと感じたが、その行動と声明は挙動経営者を傷つけていた。それにも関わらず、この共同事業は利益を上げていたので、ロイヤル・イングリッシュ・オペラ・ハウスが経営破綻した後は、カートとその妻がギルバートとサリヴァンを再度結びつけようとした。 1891年、ギルバートとサリヴァンを和解させるための多くの試みが失敗した後で、彼等のオペラの出版を担当していた音楽出版者トム・チャペルがその利益を出せる芸術家2人の間を取り持つために介入し、2週間掛けて成功した 。その結果として、1893年の『Utopia, Limited』と1896年の『The Grand Duke』が世に出された。ギルバートは3つめのリブレット『His Excellency』を1894年にサリヴァンに提案していたが、『Utopia, Limited』の時からギルバートが庇護していたナンシー・マッキントッシュの配役に拘ったために、サリバンが拒否した。『Utopia, Limited』は、南太平洋の島の王国を「イギリス化」する試みに関するものであり、ささやかな成功しか得られなかった。『The Grand Duke』は、ある劇団が「合法の決闘」と陰謀によって、大公国を政治的に支配するものであり、全くの失敗作だった。この後では共同事業が永久に終わった。サリバンは他のリブレット作者と喜歌劇の作曲を続けたが、その4年後に死んだ。1904年、ギルバートは、「サヴォイ・オペラは、私の傑出した共同製作者アーサー・サリヴァン卿の悲しむべき死によって消し去られた。それがもう一度あるとしても、満足感と成功感をもって私が共に働けると感じる者がいない。よって「リブレット」を書くのを止めた」と記すことになった。
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