オリーブの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 04:27 UTC 版)
古代のエーゲ海でのオリーブ栽培の歴史は不明瞭である。新石器時代の集落の発掘では、焦げたオリーブの木の幹が発見されている。オリーブの木の栽培作物化は紀元前3000年頃の青銅器時代初期とされているが、組織的な栽培は紀元前2000年にクレタ島で始まりまった。島でのオリーブの木、オリーブ、オリーブプレス、貯蔵オイルの生産は、紀元前1700年以降のミノア文明の時代にさかのぼる。ミノア時代の人々はオリーブを食用に、油を燃料として使っていたことがわかった。ミノア文明のクレタ島の繁栄は、オリーブ・オイルの輸出がその一端を担っていたと考えられている。クレタ人とミケーネ人の社会の経済におけるオリーブ栽培とオイル生産の重要性が知られるようになったのは、ミケーネ人の文字言語線文字Bが解読されてからである。クノッソス、ミケーネ、ピュロスなどのミケーネ人の住居から出土した多くの遺物には、オリーブの木(e-ra-wa)、オリーブ・オイル(e-ra-wo)、オリーブを表す線文字Bの記号が刻まれている。同時に、同じ絵には、オリーブの木とその製品の表意文字的な画像が描かれていたオイルは古代だけでなく、時代を超えてギリシャの最も重要な製品の一つだった。ギリシア神話では、オリーブの木は神々からの贈り物であり、アテーナーがオリーブの木をアテネ人に与えたことから、アテネ人の守護神となった。紀元前600年の賢者ソロンは、最大の収穫が得られるように、2本のオリーブの木の最適な距離を定め、1人の生産者が1年に2本以上の木を剪定することを禁止し。古代の多くの国にオリーブ・オイルが大量に輸出されていたことによるオリーブ栽培の経済的重要性に加えて、ギリシャ人はオリーブ・オイルをお菓子作り、着火剤、宗教用、壁や器の塗装などに使用していた。しかし、何よりもオリーブの木は、平和、知恵、利益の象徴だった。 古代オリンピックの優勝者には、平和と人々の和解の象徴であるオリーブで作られたリースが贈られた。アテネでは、オリーブの木は、同じようなスポーツ競技の賞に関連しており、その賞には象徴的な価値があるだけでなく、多額の金銭的報酬も伴っていた。アテネ人は4年に一度、アテーナーに敬意を表して、宗教儀式や運動競技を含む祝祭行事パナテナイア祭を開催していた。協議の優勝者には、オリーブ・オイルを入れた大きな土製の容器、有名なパナテナイア祭のアンフォラ(英語版)が贈られた。現在、世界各地の美術館で展示されているこの豪華な壷には、競技や女神アテーナーの像が描かれている。トロット競技を主として、それぞれ勝者は、1人あたり30~70個の壷を獲得することができ、その中には2.5~5トンの聖なるオリーブ畑で採れたオリーブオイルが入っていた。地中海沿岸からクリミア半島までの各地でパナテナイア祭のアンフォラが多数発見されていることから、優勝者は獲得した油を売りさばくことができたとみなされている。獲得した油を売って得た金銭で、家が2~3軒、羊が140頭買えると言われている。 ローマ時代になっても、ギリシャ人にとってオリーブとオリーブ・オイルの生産は非常に重要で、輸出によって大きな収入を得ていた。ビザンチン時代も似たような状況だった。さらに、キリスト教の勃興により、オリーブの木は新しい宗教にとって特別な象徴的意味を持つようになった。この宗教によると、ノアの鳩は神の恵みの証であるオリーブの枝を持っており、イエスはこの木を祝福された木と呼んだという。キリスト教徒はオリーブ・オイルを塗られ、ギリシャの家庭ではイコンの食卓にオイルランプが灯されるなど、オリーブ・オイルはキリスト教徒にとって生涯を通じて非常に重要なものであるギリシャの多くの修道院や教会には、非常に古い農園がある。例えば、アトス山では11世紀からオリーブが栽培されている。
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