エイラート事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 07:51 UTC 版)
「エイラート (駆逐艦)」の記事における「エイラート事件」の解説
1967年7月の11日から12日にかけての夜間、エイラートは2隻のイスラエルの魚雷艇と共に哨戒中、Rumani沿岸で2隻のエジプトの魚雷艇に遭遇した。彼らはすぐに交戦に入り、エジプトの魚雷艇を2隻とも撃沈した。エジプト軍はポートサイドの海軍司令部から駆逐艦の動きに関して定期的に報告を受けた。 エイラートはエジプト海軍の弱さを示す為に挑発的な領海侵犯を繰り返しており、エジプト海軍は司令部からの出撃命令に備えて警戒態勢に入った。 1967年10月21日、「エイラート」(艦長ショシャン中佐)はシナイ半島のポートサイド沖13.5海里の公海上を哨戒中であった。エジプト海軍はコマール型ミサイル艇を同地に配備していたが、その有効性について、海軍当局は疑問符をつけていた。しかし海軍の電子戦部門ではP-15(SS-N-2)艦対艦ミサイルの脅威を認識しており、実際、ショシャン中佐は、エイラート艦長に転任する前は海軍電子戦課長としてその対策の検討にあたっていた。その検討結果を踏まえて、イスラエル海軍ではレーダー警報受信機とチャフ発射機の開発を行っており、「エイラート」にも搭載されたばかりであったが、P-15のレーダー発振パターンについての情報がなかったため、オペレータはどのような信号を警戒すればよいか知らされておらず、またショシャン中佐自身が開発に携わっていたチャフ発射機も、まだ搭載されただけで運用可能な状態にはなっていなかった。このように、エジプト軍のミサイルについてまだ有効な対抗策がないことは艦長も承知しており、できるだけ距離を取るつもりでいた。情報部は、エジプト軍がミサイルの発射準備を進めているとの情報を得ていたが、これは艦長には通知されなかった。艦対艦ミサイルの発射は港内から行われたため、イスラエル側は、発射後しばらくの間、これを探知できなかった。 17時30分ごろ、右舷より接近するロケットが視認された。艦長は直ちに回避行動を命じるとともに警報を発令した。高角機銃による要撃が試みられたが、これは失敗し、ミサイルは右舷の喫水線のわずか上に命中、弾頭はボイラー室で爆発し、機械室も破壊された。2分後、今度は左舷側からミサイルが飛来、機銃が応射したものの、やはり命中した。 これらの攻撃によって全ての電源が喪失、また応急要員の中核となるはずだった機関室の先任士官および下士官が全員戦死したことから、ダメージコントロールにも支障をきたす事態となった。それにもかかわらず、当初、防水作業は一定の成功を収めており、迅速な救援があれば艦は生還できる見込みがあった。しかし攻撃によって艦の無線機は破壊されており、修理が難航したことから、救援要請は遅れていた。 19時45分、防水隔壁の損壊開始が報告されたことから、艦長は総員退艦を命令した。しかし乗員が退艦し、艦長が最後の見回りを行っている最中に更に2発のミサイルが飛来、1発目は艦に命中して破壊と火災を広げ、2発目が至近弾となって海中で爆発したことで、脱出した乗員の多くが戦死した。その約2分後に艦が沈没し、救援部隊の到着はさらに約1時間後であった。最終的に、乗員約200名のうち45名が戦死、艦長を含む100名以上が負傷した。
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