アーリア人種仮説へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 03:51 UTC 版)
「アーリアン学説」の記事における「アーリア人種仮説へ」の解説
この学説は、多くの学者によって継承・展開され、比較言語学におけるヨーロッパの諸言語の起源への問いは、徐々に「ヨーロッパ文明の起源」そのものへの問いに移り変わっていった。ヒンドゥー教の聖典『リグ・ヴェーダ』を翻訳したドイツ人のマックス・ミュラーが、この潮流に大きな役割を果たした。ミュラーは、インドに侵入したサンスクリット語を話す人々を、彼らが自身を「アーリア」と呼んでいたという理由で、「アーリア人」と呼ぶべきであるとした。インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言葉を話していた住民は共通した民族意識を持ち、彼らがインドからヨーロッパにまたがる広い範囲を征服して自らの言語を広めた結果としてインド・ヨーロッパ諸語が成立したとする仮説を唱えた。ミュラーは、アーリア人はインドから北西に移住していき、その過程で様々な文明や宗教を生み出したと主張した。 19世紀には、「アーリア人」は、上記のような想定された祖民族という趣から進んで、「インド・ヨーロッパ語族を使用する民族」と同じ意味に使われ、ヨーロッパ、ペルシャ、インドの各民族の共通の人種的、民族的な祖先であると主張された。通常、「アーリアン学説」と呼ばれるのはこの時代の理論である。ミュラーは晩年、自身の学説が根拠に乏しいことを認めているが、「諸文明の祖」であるアーリア人という魅力的なイメージは、多くの研究者や思想家によって広まっていった。ナチズムを研究する浜崎一敏は、「アーリア人種」 とは、「もともと言語学の概念であったものを生物学的人種論領域に移し替えて捏造した言葉」であると述べている。 宗教学者の大田俊寛は、拡大されたアーリアン学説の典型的な例として、フランスの作家アルテュール・ド・ゴビノーをあげている。彼はアーリア人種の優越性を説いた人種論の祖として知られる。『人種不平等論』(1853-55年)で、人類を黒色人種・黄色人種・白色人種に大きく分け、黒色人種は知能が低く動物的で、黄色人種は無感動で功利的、白色人種は高い知性と名誉心を持ち、アーリア人は白色人種の代表的存在で、主要な文明はすべて彼らが作ったと主張した。 この理論はイギリスとドイツで特に盛んに主張されたが、その背景は大きく異なっている。イギリスの場合はインドの植民地支配において、「イギリス人によるインド人支配」を正当化するために利用された。インドがイスラム教徒により支配される前はヒンドゥー教徒が支配しており、ヒンドゥー教徒の支配階級はアーリア人またはアーリア人との混血を起源としていたためで、イギリス人は支配階級のヒンドゥー教徒とイギリス人が同じ民族であると主張する事で、自己を支配者として正当化しようとしたのである。 ドイツでは、作曲家ワーグナーなどが、アーリアン学説を肯定した上でドイツ人が最も純粋なアーリア人の血を引く民族であると主張する事で、近代になって形成されたに過ぎない自民族の権威付けに用いた。ゴビノ―のアーリア人種至上主義は、ヒューストン・ステュアート・チェンバレン(ワーグナーの娘エヴァの婿)の『十九世紀の基礎』(1899年)に継承され、そこでは理論はさらに先鋭化され、アーリア人種の中でもゲルマン人こそ最も優秀な民族であると主張された。『十九世紀の基礎』はドイツでベストセラーになり、彼の理論は後にナチズムのイデオロギーを支える重要な柱となった。20世紀初頭のドイツ人は、「アーリア人種」という神話を「民衆思想の一部」となったといわれるほど広く受け入れ、「金髪、高貴で勇敢、勤勉で誠実、健康で強靭」というアーリア人種のイメージは彼らの理想像となり、アーリア人種論はヒトラーの思想形成にも影響を及ぼした。ドイツ民族こそがアーリア人種の理想を体現する民族であり、ドイツ的な「精神」が「アーリア人種」の証とみなされた。アーリア人種はドイツ民族と同義語になり、人種主義はドイツ・ナショナリズムを統合するものになっていった。
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