黒色人種・黄色人種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「黒色人種・黄色人種」の解説
一方、黒色人種に関しては「アフリカから報告を受ける度に不快だ。今日も黒人と同棲した兵士が逮捕された。汚らわしい植民者が7年もしないうちに帝国を潰す」「混血を生まず、美を損なわないようイタリア人にも人種意識が必要だ」と愛人に語り、差別意識をより露骨に見せている。この傾向は少年期から敵視していたエチオピア帝国の併合後に高まっていった。ユダヤ教徒に対するホロコーストへの反対、リビアのベルベル人に対しての同化政策とは一転し、エチオピアにおいてはアパルトヘイト的な人種隔離を徹底させている。黒色人種との融和を説く、ローマを訪れたエチオピア人の少女が黒シャツを着るという党歌が作られた際には怒りを露にして、関係者を処罰して歌を禁止させている。またエチオピアのアラヤ・アババと日本の黒田雅子の縁談が持ち上がり日本とエチオピアが政治的、経済的に接近していた際には、ムッソリーニは日本を強く非難し、イタリアのマスメディアも反日的な報道を行っていた。 黄色人種については基本的には白色人種より劣ると考えつつ、同時に敬意や脅威も抱くという、ヒトラー同様の黄禍論的な観点を持っていた。日本人義勇兵として第一次世界大戦のイタリア陸軍で戦い、ダンヌンツィオから「カメラータ・サムライ(camerata Samurai、侍の戦友)」と呼ばれた下位春吉と親交を持っていたことは日伊両国で知られている。ムッソリーニは下位の「白虎隊にイタリア人が尊敬を抱いている」という作り話を否定せず、外務省を通じて記念碑を寄贈して日本の体面を壊さないように配慮している。日本の大東亜共栄圏構想にも概ね好意的で、ドイツを中心とした戦後欧州を牽制する存在はイタリアにとっても有益と見ていた。吉田茂が駐イタリア大使時代にムッソリーニに初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省からは吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりに、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。 またチャンドラ・ボースを形式的に支援しながらもインド独立に否定的だったヒトラーと異なり、インド独立の闘士であり平和主義者でもあるマハトマ・ガンジーと公式に会談している。ガンジーはファシスト党の少年組織であるバリッラ団の少年達と交流し、面会したムッソリーニについては「私心のない政治家である」と賞賛している。
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