アーリア人との関係
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『リグ・ヴェーダ』によると、アフガニスタン東部、パンジャーブ州、ウッタル・プラデーシュ州西部にかけてを起源とするアーリア人は、時に他の部族との争いを引き起こしたが、そのひとつがダーサであると考えられる。 以前は、ダーサをドラヴィダ人に比定する学説が有力であったが完全に否定されている[誰によって?]。 近年では、ダーサは『リグ・ヴェーダ』を保持していた北西部インド人とは習俗を異にする、別の北西部インド人の一派であると考えられている。ダーサは『リグ・ヴェーダ』に述べられる生活方式を採らなかったため、征服されヴェーダ的社会の一部に組み込まれたようである。したがって、ダスユのように社会外の存在として扱われたわけではないようである。 ゆえに、戦争においてアーリア人とともに戦ったダーサが描かれる場面も、『リグ・ヴェーダ』には存在する。十王戦争においては、両陣にアーリア人もダーサも加勢していた。また、アーリア人と同様に賞賛されるダーサも存在する。タルクシャ王は、非常に寛大な王であったと『リグ・ヴェーダ』において讃えられている(6.45.31、8.46.32)。
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アーリア人との関係
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「バクトリア・マルギアナ複合」の記事における「アーリア人との関係」の解説
この時代は、アーリア人(インド・イラン語派の言語を用いる人々)がインドやイランで勃興する直前の時期に当たり、BMACはこれとの関係でも注目されている。アンドロノヴォ文化を原アーリア文化とする説があるが、この文化はインド・イランの考古学的文化と関連づけるのが難しい。またアンドロノヴォ文化が原アーリア文化であれば、これがBMACを滅亡させたと想像されるが、BMACは馬の牧畜と戦車を使用する文化により滅亡した形跡はあるものの、より北方に位置する地方の同文化の最も早い痕跡は紀元前1100年頃のものである。またサリアニディ自身はBMAC=原アーリア説を主張し、大量の灰あるいはケシや麻黄が発見された宮殿の部屋をアーリア人の拝火儀式、ソーマ(ハオマ)儀式の証拠であるとするが、BMACは農耕文化であって馬に関係した遺物は極めて乏しく、BMACを原アーリア人と関連づけるのは困難である。またジェームズ・マロリー(英語版)はヴェーダにおける砦の記述と発掘された城塞とを結び付け、アンドロノヴォ文化がBMACと同化してアーリア文化になったと主張するが、BMACとこれを滅亡させたと見られる文化は短期間かつ断絶的に入れ替わっている。 インド・イラン語派には印欧祖語やドラヴィダ語と異なる基層言語があるとの考えもあり、それがBMACの言語(単一ではなかったかもしれないが)ではないかと考える人もいる。現在ガンダーラ地方の近く(カシミール)に残っているブルシャスキー語も関係があるかもしれない。
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