アイヌ伝説とは? わかりやすく解説

アイヌ伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)

義経=ジンギスカン説」の記事における「アイヌ伝説」の解説

宝永7年1710年)に蝦夷地訪れた幕府巡検使松宮観山が、蝦夷通詞からの聞書を基にした『蝦夷筆記』(『日本庶民生活史集成第四巻)には、「(義経が)蝦夷大将の娘に馴染み秘蔵巻物を取たるといふ事」をアイヌユーカラに謡っている事などが記されている。これは『御曹子島渡』の、義経千島大王大日法の巻物を、天女力を借りて写し終えると白紙になったという物語擬えたものである(『義経伝説文学大学堂書店1935年)。和人伝えた考えられるが、この伝説も巻物アイヌ文字記した書物白紙になったことでアイヌ文字失われたという話は、義経アイヌ文字奪ったという話と同じである。原田信男弁慶岬弁慶崎)の地名アイヌ語の「ベルケイ」と云い、これは「裂けた所」の意味で、海食地形のことであり、ここで義経一行逗留中に余興として弁慶相撲をとったと伝わるが、アイヌ人弁慶としてで命名したではなく和人義経伝説因んで勝手に命名したに過ぎないと書いている(小シーボルト蝦夷見聞記)。この事は間宮林蔵や、岩崎克己指摘している。元文4年(1739年)成立の坂倉源次郎北海随筆』(『日本庶民生活資料集成三一書房1969年)には、この「弁慶崎」から、義経が「北高麗」に渡った、とする伝承記されている。また、義経オキクルミとすることに対して弁慶もう一人英雄サマユンクル擬える事も、広く行われていた。この地方民話に詳しい北星学園大学文学部教授阿部敏夫は、義経アイヌ住居訪ね歩いたではないかとしている。 北海道には古くから義経伝説残り室町前期の『義経記』によって義経伝説広く親しまれていたが、室町末期御伽草子御曹子島渡』に義経千島渡って大日如来兵法盗んで還ったという話がある。同様の話が明治初年英国人ジョン・バチェラー採取したアイヌ口碑にもあり、そこでは大日兵法書を「トラ・ノ・マキモン」と呼び和人伝え広めたにすぎない(島津久基義経伝説文学』)。原田アイヌ英雄伝説和人通訳者によって義経置き換えられ、それが交互に伝えられる事でアイヌの間にも広まり和人義経伝説として発展したものと考えられるとしている。既に白石時代こうした伝承成立していた。 語り物を楽しみとしていたアイヌの人々には日本口承文芸受容され、彼らの昔話に採り入れられていた。アイヌウエペケレ口承伝承)などがあるが、近世初期の『異本義経記』に室町期武士商人蝦夷地訪れ活発な活動行っていた旨がみえることが参考になる。交易などを目的蝦夷地渡った和人少なからず存在しており、彼らもまた昔話語り手であったそれゆえ様々な日本物語アイヌの人々の間に口授されていった考えられる。『御曹子島渡』の蝦夷かねひら大王巻物大日の法」のはなしについては文化5(1808)年の最上徳内の『渡島筆記』に「我々も先祖よみかきするわざをわきまえたけれど、ホウガンどのにそのその巻物を獲られてより初めて字を作ることを知らざるもの成たり」とし、義経巻物奪ったせいでアイヌは文字失ったとしている。『御曹子島渡』の一部アイヌの人々の間にシサム・ウエケペレの一つとして入りこんでいたと考えられる

※この「アイヌ伝説」の解説は、「義経=ジンギスカン説」の解説の一部です。
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