アイヌ伝説
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「義経=ジンギスカン説」の記事における「アイヌ伝説」の解説
宝永7年(1710年)に蝦夷地を訪れた幕府巡検使・松宮観山が、蝦夷通詞からの聞書を基にした『蝦夷談筆記』(『日本庶民生活史料集成』第四巻)には、「(義経が)蝦夷の大将の娘に馴染み、秘蔵の巻物を取たるといふ事」をアイヌがユーカラに謡っている事などが記されている。これは『御曹子島渡』の、義経が千島大王の大日法の巻物を、天女の力を借りて写し終えると白紙になったという物語を擬えたものである(『義経伝説と文学』大学堂書店、1935年)。和人が伝えたと考えられるが、この伝説も巻物がアイヌの文字を記した書物で白紙になったことでアイヌの文字が失われたという話は、義経がアイヌの文字を奪ったという話と同じである。原田信男は弁慶岬(弁慶崎)の地名はアイヌ語の「ベルケイ」と云い、これは「裂けた所」の意味で、海食地形のことであり、ここで義経一行が逗留中に余興として弁慶が相撲をとったと伝わるが、アイヌ人が弁慶としてで命名したのではなく、和人が義経伝説に因んで勝手に命名したに過ぎないと書いている(小シーボルト蝦夷見聞記)。この事は間宮林蔵や、岩崎克己も指摘している。元文4年(1739年)成立の坂倉源次郎『北海随筆』(『日本庶民生活資料集成』三一書房、1969年)には、この「弁慶崎」から、義経が「北高麗」に渡った、とする伝承が記されている。また、義経をオキクルミとすることに対して、弁慶をもう一人の英雄でサマユンクルに擬える事も、広く行われていた。この地方の民話に詳しい北星学園大学文学部教授阿部敏夫は、義経はアイヌの住居を訪ね歩いたのではないかとしている。 北海道には古くから義経伝説が残り、室町前期の『義経記』によって義経伝説は広く親しまれていたが、室町末期の御伽草子『御曹子島渡』に義経が千島に渡って大日如来の兵法を盗んで還ったという話がある。同様の話が明治初年の英国人ジョン・バチェラーが採取したアイヌの口碑にもあり、そこでは大日の兵法書を「トラ・ノ・マキモン」と呼び和人が伝え広めた物にすぎない(島津久基『義経伝説と文学』)。原田はアイヌの英雄伝説が和人通訳者によって義経に置き換えられ、それが交互に伝えられる事でアイヌの間にも広まり、和人に義経伝説として発展したものと考えられるとしている。既に白石の時代にこうした伝承が成立していた。 語り物を楽しみとしていたアイヌの人々には日本の口承文芸が受容され、彼らの昔話に採り入れられていた。アイヌのウエペケレ(口承伝承)などがあるが、近世初期の『異本義経記』に室町期に武士や商人が蝦夷地を訪れ、活発な活動を行っていた旨がみえることが参考になる。交易などを目的に蝦夷地に渡った和人が少なからず存在しており、彼らもまた昔話の語り手であった。それゆえ、様々な日本の物語がアイヌの人々の間に口授されていったと考えられる。『御曹子島渡』の蝦夷のかねひら大王の巻物「大日の法」のはなしについては文化5(1808)年の最上徳内の『渡島筆記』に「我々も先祖はよみかきするわざをわきまえたけれど、ホウガンどのにそのその巻物を獲られてより初めて字を作ることを知らざるもの成たり」とし、義経が巻物を奪ったせいでアイヌは文字を失ったとしている。『御曹子島渡』の一部がアイヌの人々の間にシサム・ウエケペレの一つとして入りこんでいたと考えられる
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