アイヌ乙名の山丹渡航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:20 UTC 版)
18世紀後半、ナヨロ(泊居郡名寄村)の惣乙名が、交易相手のスメレンクル夷や山丹人を殺害し、これをきっかけにライチシカ(三浜村)のアイヌ乙名も満州人の報復で朝貢交易を強いられた(『北夷分界余話』)。また郷長(ガシャン・ダ)の称号を与えられ(冊封)、数年に一度山丹に出向いていた。 ちなみに、幕藩体制下の郷村制の役職を持ちながら、朝貢交易で山丹に出向いた当時の彼らの位置付けは、薩摩藩の附庸国であった琉球王国の事例が近いと思われる。 日本列島における朝貢や冊封については、カラフトナヨロ惣乙名文書を参照 紛争などが原因で朝貢を強要された例は、他に李氏朝鮮の仁祖があり、その経緯は大清皇帝功徳碑も参照されたい。
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アイヌ乙名の山丹渡航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:48 UTC 版)
18世紀後半、ソヨンコタン(僧院)とフヌフ(班伸)のアイヌ乙名が満州人から朝貢交易を強いられ、郷長(ガシャン・ダ)の称号を与えられた(冊封)。これは、ナヨロ(泊居郡名寄村)の惣乙名が、交易相手のスメレンクル夷や山丹人を殺害し商品を奪ったことに起因する(『北夷分界余話』)。山丹に出向くのは数年に一度程度であったが、アイヌ乙名たちにとって大きな負担となったという。 ただし、アイヌ乙名たちは幕藩体制下の郷村制の役職も持ちながら山丹渡航しており、薩摩藩の附庸国であった琉球王国に近い位置づけの外交関係や交易形態であった。 日本列島における朝貢や冊封については、カラフトナヨロ惣乙名文書を参照 紛争などが原因で朝貢を強要された例は、他に李氏朝鮮の仁祖があり、その経緯は大清皇帝功徳碑も参照されたい。
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アイヌ乙名の山丹渡航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:49 UTC 版)
18世紀後半、ナヨロ(泊居郡名寄村)の惣乙名が、交易相手のスメレンクル夷や山丹人を殺害し商品を奪った事件が原因(『北夷分界余話』より)で、ウショロ(鵜城)のアイヌ乙名も満州人から朝貢交易を求められ、郷長(ガシャン・ダ)の称号を与えられた(冊封)。回数は数年に一度大陸の黒龍江下流域に出向くだけであったが、アイヌの負担はとても大きく困窮したという。 彼らは幕藩体制下の郷村制の役職も持っており、その位置づけは後の改革で大陸渡航を禁じられるまで、薩摩藩の附庸国であった琉球王国に近かった。 日本列島における朝貢や冊封については、カラフトナヨロ惣乙名文書を参照 紛争などが原因で朝貢を強要された例は、他に李氏朝鮮の仁祖があり、その経緯は大清皇帝功徳碑も参照されたい。
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アイヌ乙名の山丹渡航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:52 UTC 版)
『北夷分界余話』によると、18世紀後半、ナヨロ(泊居郡名寄村)の惣乙名によって、交易相手のスメレンクル夷や山丹人が殺害され商品が奪われた事件が発端となり、その報復でナエフツ(栄浜村内淵)のアイヌ乙名も朝貢交易を求められ、満州人より郷長(ガシャン・ダ)の称号を与えられた(冊封)。樺太東岸ではナエフツ以北のアイヌ乙名が山丹渡航していたが、頻度は数年に一度程度で済んだという。しかし、アイヌ乙名たちにとって山丹との交易は大きな負担となった。 ただし、アイヌ乙名たちは幕藩体制下の郷村制の役職も持ちながら山丹渡航しており、薩摩藩の附庸国であった琉球王国に近い位置づけの外交関係や交易形態であった。 日本列島における朝貢や冊封については、カラフトナヨロ惣乙名文書を参照 紛争などが原因で朝貢を強要された例は、他に李氏朝鮮の仁祖があり、その経緯は大清皇帝功徳碑も参照されたい。
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