アイデアと特許
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 16:41 UTC 版)
シラードは、立場や環境に束縛されない独立した個人でいることによって、人の創造性が最大限に発揮できるものと考えていた。幼少期から多くの新奇なアイデアの創出や発明に熱中したが、学位を得るとともに、固定した学問的地位を得るよりも、多くの同僚研究者の間を「知的放浪者」として忙しなく巡り様々な忠告を行うのを習慣とした。こうした行いからベルリン時代には「最高指導者」 (Generaldirektor) とあだ名され、厚かましいものと煙たがられた一方で、思いもよらない有用なアイデアを与えることもあった。一方、多様な研究者との会話から生まれてきたアイデアは、数多くの特許という形で残された。博士号を得た直後の1923年、カイザー・ヴィルヘルム研究所でX線回折の研究を行っていたハーマン・マーク (Herman F. Mark)を尋ねた後、シラードはX線センサー素子に関して初の特許を申請している。 ルスカがそれを実際に製作したのと同じ1931年に単純な形式の電子顕微鏡の特許を申請しているが、デニス・ガボールによればそのアイデアをシラードから初めて聞いたのはその4年前だったという。これより前に、線形加速器さらにはサイクロトロン、ベータトロンに関する特許を相次いで出願している。サイクロトロンの特許出願はローレンスがそれを思いついた時期に数か月先立ち、やはりその実現の4年前であった。 これらベルリン時代の発明の中で最も実現に近づいたものは冷蔵庫用の可動部のないポンプに関する一連の特許であった。この頃の冷蔵庫は冷媒として有毒なガスを用いており、ポンプの可動部の隙間からガスが漏れ出して死亡する事故が度々起きていた。アインシュタインと親しい付き合いをしていたシラードは、こうした事件を受け、液体金属を外部から電磁誘導によって流動させるなど3種類の冷却装置の設計を共に行って連名で特許を取得した。アインシュタインとシラードの冷蔵庫も参照。その一部はゼネラル・エレクトリック社のドイツ法人 (Allgemeine Elektricitätsgesellschaft, AEG) で試作されたものの、騒音の低減ができなかったことや経営状況の悪化のために実用化されることは無かった。 その後イギリスでは初期の核連鎖反応のアイデアを特許とし、アメリカではエンリコ・フェルミとの黒鉛型原子炉に関する特許を残している。さらに使用済み核燃料に多くの新たな燃料を含む原子炉である増殖炉、微生物の連続培養装置であるケモスタット (chemostat) などを発案した。 シラードはこうした新たなアイデアを出すことには熱心だったものの、その後は興味を失うことが多く、こうした特許のうちで実現を試みたものは少なかった。またシラードの特許への嗜好を利己的で科学者らしくないと考える同僚も多かったが、シラードは彼が理想とした組織から独立した個人としているために必要なものだと考えていた。しかし結果としてこうした発明の多くはシラードに利益をもたらしていない。 1933年の経済学者ベヴァリッジらによる亡命学者受け入れのための学術支援評議会 (Academic Assistance Council, AAC) の設立や、1963年の生物学者ジョナス・ソークによるソーク研究所の設立には、こうしたシラードの早期の働きかけがあった。また、パグウォッシュ会議での儀礼的なやり取りに飽き足らず、新たなアイデアの創出と実効的な議論を求め両陣営の科学者や実務者による小規模で非公式な会議を度々企画したが、やはり実現に至ることはなかった。
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