真壁城跡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 真壁城跡の意味・解説 

真壁城跡

名称: 真壁城跡
ふりがな まかべじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 茨城県
市区町村 桜川市真壁
管理団体
指定年月日 1994.10.28(平成6.10.28)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 真壁城は、平国香にはじまる坂東平氏常陸大掾氏一族真壁氏本城である。
 真壁氏の祖長幹(真壁六郎)は多気直幹の子で、平安末期真壁郡入部した。このおりに真壁城築かれたとする伝承もある。以後真壁氏はこの地を基盤とする武士団として成長し、「真壁文書」「真壁長岡文書(古宇田文書)」など、多数中世古文書残している。
 真壁氏の城が中世古文書登場するのは南北朝期であり、興国2年(1341)12月史料に、北畠親房の「御方城々」として、真壁城がみえている。
 また応永30年1423)には、真壁氏室町幕府直属京都扶持衆となっており、ためにこの年8月2日鎌倉公方方の豪族攻撃受けて合戦が行われている。
 こののち真壁氏古河公方小田氏対す従属連携離反等を経ながらも、領主として存続するが、天正18年(1590)の後北条氏滅亡後新たに常陸全体領主となった佐竹氏家臣となり、慶長7年1602)の国替え際し真壁氏出羽移り真壁城真壁氏本宗代々居城としての役割終えた
 しかし慶長11年(1606)、浅野長政隠居分として真壁筑波郡内に5万石を与えられ長政はこの城を隠居所とし、その子長重笠間移封後は寛永元年(1624)に稲葉正勝春日局子)が1万石で入城、そして寛永5年(1628)の彼の真岡移封に伴い真壁城廃城となった
 城跡筑波山足尾山西麓台地上、桜川沿いの平地にのぞむ高燥地にあり、本丸中心に四重のほりをめぐらす堅固な城構えである。
 本丸標高47メートルにあり、南北100メートル東西80100メートル北方土塁稲荷神社祀られる本丸を囲むほりを一のほりと仮称するが、その周囲同心円状二の丸と二のほりがある。
 さらにその東方小字中城とよぶくるわがあり、さらに続いて小字瀬戸とするくるわがある。本丸二の丸同心円状であるのに対し中城瀬戸のくるわを囲むほりは直線的であり、「折」とよぶ屈曲多く用いられている。二の丸から中城中城から瀬戸への通路が、この「折」の部分設けられているのは、側射(横矢がかり)の機能強く意識してのものである
 なお本丸稲荷社のほか、瀬戸には鹿島社配し城の守護神とした。瀬戸の東は北戸張よばれるが、外郭施設存在うかがわせる地名である。城の建物そのもの残っていないが、真壁城城門移築したとする伝承をもつものとして真壁町隣接する大和町法寺山門)と、協和町大木義一氏宅表門)とに、薬医門が各一棟残っている。
 なお今日残る真壁城縄張平面プラン)は、むろんこの城の最終段階を示すものである過去昭和56年本丸発掘調査したことがあるが、そのおり本丸南北分断する深さメートル、上幅十数メートルのほりが検出されている。遺物としてはかわらけ土鍋青磁白磁灰釉陶器のほか、鏃・弾丸なども出土している。
 このように真壁城跡は四重のほりをもつ北関東屈指の城跡であり、弧状直線状の各種ほりを多用した巧妙な縄張は、高度な築城技術を示すものでもある。歴史的に平安期以来戦国末期に至るまで、一貫してこの地の領主だった坂東平氏真壁本宗家の城として重要である。よって史跡指定し、その保存を図るものである
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  相島積石塚群  相模国分寺跡  相模国分尼寺跡  真壁城跡  真宮遺跡  真珠庵庭園  真福寺貝塚



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「真壁城跡」の関連用語

真壁城跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



真壁城跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS