ひとみの帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 08:47 UTC 版)
2002年9月17日、小泉純一郎首相が訪朝し、1日だけの日朝首脳会談を開き、それまで「事実無根」としてきた日本人拉致被害者の存在を北朝鮮政府が公式に認めた。曽我ひとみの生存も明らかにされ、妹はそのとき初めて姉と母が北朝鮮に拉致されたことを知った。しかし、母のミヨシについて、北朝鮮当局は「承知していない。特殊機関工作員が『現地請負業者』から引き渡しを受けたのは曽我ひとみ1人だけ」と発表した。政府が北朝鮮政府に提出した拉致被害者とみられる失踪者名簿のなかには曽我ミヨシ・曽我ひとみの名はなかった。曽我母子失踪事件に関しては、新潟県警察は母子で行方不明になっているなどの理由から北朝鮮側の発表まで拉致の可能性が薄いと考えていた。政府が拉致被害者として認めたのは北朝鮮が情報を出してきてからであり、拉致問題に対する日本政府、特に警察の取り組みの甘さが指摘される。ひとみの夫ジェンキンスは密かにラジオをずっと聴いていて北朝鮮当局がひとみの拉致を認めたことを知り、「日本政府が会いに来るんだよ。やっと願いがかなうんだ。会いにいくべきだ」と彼女に帰国を勧めた。 10月15日、曽我ひとみは羽田空港に降り立ち、24年ぶりに帰国した。出迎えには妹が来て、ただただ抱き合って泣いた。彼女は久しぶりに会った姉があまりに母親そっくりで驚いたという。10月17日、ひとみは故郷佐渡に帰った。真野町では全戸が「お帰りなさい。曽我ひとみさん」の札を掲げて彼女を出迎えた。ひとみは「今、私は夢を見ているようです。人々の心、山、川、谷、みんな温かく美しく見えます」と会見で語った。事故のケガで足の不自由な父は、玄関前で娘を抱きしめた。「ご苦労だったな、父ちゃん待っとった」と声をかけ、大声で泣いた。11月7日、曽我ミヨシ・ひとみの母子は真野町の戸籍を回復した。しかし、ミヨシの消息は依然としてわからず、ひとみ自身は北朝鮮にいる夫や子どもたちと会うことのできない苦しみをかかえていた。ひとみは日本に来るまでミヨシが日本で暮らしていると思っていたのに、24年前に自分とともに失踪したままになっていることに愕然とし、母の着物や日用品をながめては毎日泣いていたという。茂もまた、妻ミヨシについて「どんけい(どのくらい)、夢を見たかわからん」との思いを語った。 ひとみの帰国後、曽我家の裏手にある真野町の大願寺の地蔵堂に「祈願 曽我ミヨシ」と背中に書かれた地蔵菩薩が置かれた。大願寺住職の母によって彼女の無事を祈って建てられた地蔵尊である。「1時間でも、30分でも、母に何か親孝行をしてあげたい。そんな平凡で当たり前のことが、したくてもできない」とひとみはもどかしく思う。父親の茂も同じ気持ちだ。 曽我ひとみ自身も拉致被害者であるが、いま彼女は「家族会」(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)とともに、拉致被害者である母、曽我ミヨシの救出活動に力を注いでいる。拉致問題対策本部に送ったビデオメッセージは世界に向けて発信されている 。街頭での署名活動も年間6回ほど継続しておこなってきたが、新型コロナウイルス感染症が蔓延してからは数を減らして実施している。 拉致被害者の安否確認について、やはり拉致被害者のひとりである蓮池薫は「北朝鮮は調査すると言うが、どこに誰が暮らしているかはすべて把握しているので必要ない」と指摘しており、「政府が02年の報告書を認めないのも、12人の拉致被害者が生きているとの確信があってのこと」だと述べている。彼は、「曽我さんに関しても、娘は把握しているが、母親のことは分からない、という。そんなことがありえますか」と疑問を呈し、北朝鮮はきっと母親の消息をつかんでいるはずだとしている。ひとみの夫チャールズ・ジェンキンスもまた、「北朝鮮のだれかは知っているはず」と述べている。真相解明と救出に、政治の力が求められている。
※この「ひとみの帰国」の解説は、「曽我ミヨシ」の解説の一部です。
「ひとみの帰国」を含む「曽我ミヨシ」の記事については、「曽我ミヨシ」の概要を参照ください。
- ひとみの帰国のページへのリンク