その他の人物との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:59 UTC 版)
明治39年(1906年)ごろ、当時園芸家を目指していたのちの衆議院議員・山本宣治を住み込みで雇っていた。さらに山本のカナダへの園芸留学を支援した。 同志社大学の創立者である新島襄とは、東京専門学校の設立時から深い交流があった。新島は同志社の設立資金を集めるべく奔走していたが、大隈がこれに賛同したことで両者の親交は深まった。大隈は、新島亡きあとも同志社綱領改定に端を発した紛争の調停に尽力したほか、京都に行ったときは必ず同志社に立ち寄り、演説していたという。現在、早稲田大学と同志社大学との間には国内交換留学協定が締結されている。 日本女子大学の創始者である成瀬仁蔵とも親交があった。1896年5月、大隈は女子大学設立に奔走する成瀬の訪問を受け、協力を要請される。その後、大隈は大学創立委員会委員長となった。1901年に日本女子大学は設立され、大隈は終身評議員となり、1919年の成瀬の告別式には弔辞を寄せている。また大隈の寄付によって大学の校庭に花園が作られている。坪内逍遙ら早稲田大学の教員が日本女子大学での講義を担当したほか、1999年7月に早稲田大学と日本女子大学の間で学生交流協定が締結され、双方の大学の講義を履修することが可能となっている。 早稲田の大隈邸には、早稲田大学総長任期中も含め、イェール大学教授のG・Tラッド(1899年、1906年)、ハーバード大学総長のC・W・エリオット(1912年、1921年)、オックスフォード大学教授(1912年)のA・H・セースのほか、スタンフォード大学総長やブラウン大学総長、シカゴ大学総長夫妻など世界各国から多数の著名人が来邸したため、「私設外務省」と呼ばれたりもした。 ヴィクトリア女王の女官を務め、のちオックスフォード大学に入学し、比較宗教学を学んだE・A・ゴルドンは、日頃から大隈候を敬慕し、名誉講師として講演を行うなど縁の深かったことから、帰国の際、早稲田大学に「石羊」と「ゴルドン文庫」を寄贈された。羊の石像は、早稲田大学の高田早苗記念研究図書館を見守っている。 鳳が横綱に昇進した際に土俵入りで太刀持ちが使う太刀を贈った。 明治41年(1908年)、コロンビアから来日したアントニオ・イスキエルド(1866 ‐ 1922)に庭師の川口友広を紹介し、川口ら3名(2名は氏名不詳)の日本人が初めてコロンビアに渡った。イスキエルドは当時のコロンビア大統領・ラファエル・レジェスから極東との交易の可能性について調査を命じられており、大隈は川口を推挙することでコロンビアとの外交関係を友好的に拡大したいと考えていた。川口は首都ボゴタにあるイスキエルド所有の森林を整備し、1910年に開催された独立100周年記念の博覧会場として利用された。川口らのその後の消息は不明だが、ボゴタに川口の墓碑があるとの未確認情報もある。
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