そしてチンギス・ハンにとは? わかりやすく解説

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そしてチンギス・ハンに

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)

義経=ジンギスカン説」の記事における「そしてチンギス・ハンに」の解説

チンギス・ハンへと変身させられるところとなるが、その論陣最初に張ったのは日本人ではなくフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトであった。 「#シーボルトの説」も参照 文政6年1823年)に来日し長崎鳴滝塾などに多く門弟集めて洋学発展尽くしたが、シーボルト事件によって同12年1829年)に国外追放となった安政5年1858年)に日蘭修好通商条約締結を機として翌年再来日果たし活躍し文久2年1862年)に帰国した吉雄忠次郎にその義経成吉思汗説を聞いてから、風説にすぎなかったその説に文献的裏付けを得るため、『日本執筆時に白石の『蝦夷志』を、フランス語訳マルテ・ブリューン編『地理及び歴史に関する探検旅行紀集』第24巻読んだという。しかし二度目の来日30年後である)でもこの説を日本友人達盛んに吹聴している。文久3年1863年)の松浦武四郎西蝦夷日誌二編には蕃書調所大島高任から次のような話を訊いたという。シーボルト中国渡って「建靖寧寺記(けんせいねいじき)」という碑文見たがこれは蒙古語で全く読めなかった。しかし中国人から大意聞くと元の太祖はもと日本人で、兄の勘気触れて蝦夷渡り、彼らを服従せしめて満州移って蒙古に赴き、中国治めて帝位上り源氏の源を借りて元と国号改めた旨が記されているという。これは『柳庵雑記りゅうあんざっき)」という書に基づくという。蕃書調書西周 (啓蒙家)明治2年1869年)稿の「末広の寿」で、シーボルトが元の太祖蝦夷渡った義経であると、再来日した際に話したとしている。シーボルト洋学者たちに切々とこの説を説いて回ったが殆ど信じてもらえなかった。ただ白石義経韃靼行と清祖説には触れているが、全面的に肯定しているわけではなく元祖説にも至っていない。近世中には義経=清祖説が一般的で、韃靼満州近辺認識されており、義経韃靼行は広く信じられていた。シーボルトはこれを『蝦夷志』で抑え韃靼モンゴル即ち元と解釈し義経=ジンギスカン説として発表した明治時代初期のアメリカ教師グリフィス影響受けてその書『皇國ミカド 日本の内なる力)』でこの説を論じる。 末松謙澄の「義経再興記」や大正末年小谷部全一郎によって『成吉思汗源義經也』が著されると大ブームになり、多く信奉者生んだ義経チンギス・ハンになったという説はシーボルト最初で、その論文影響が非常に大きいと岩崎克己記している。 「#小谷部全一郎の説」も参照 明治以後東洋史西洋から入り史学者などの反論大きくなるが、否定されつつも東北北海道では今も義経北行説を信じる者が根強く存在している。戦後高木彬光1958年昭和33年)に『成吉思汗の秘密』を著して人気得たが、この頃になると戦前ほどの世間関心薄れ生存説アカデミックな世界からは取り扱われることはなくなった。

※この「そしてチンギス・ハンに」の解説は、「義経=ジンギスカン説」の解説の一部です。
「そしてチンギス・ハンに」を含む「義経=ジンギスカン説」の記事については、「義経=ジンギスカン説」の概要を参照ください。

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