そしてチンギス・ハンに
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「義経=ジンギスカン説」の記事における「そしてチンギス・ハンに」の解説
チンギス・ハンへと変身させられるところとなるが、その論陣を最初に張ったのは日本人ではなくフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトであった。 「#シーボルトの説」も参照 文政6年(1823年)に来日し、長崎の鳴滝塾などに多くの門弟を集めて洋学の発展に尽くしたが、シーボルト事件によって同12年(1829年)に国外追放となった。安政5年(1858年)に日蘭修好通商条約の締結を機として翌年に再来日を果たして活躍し、文久2年(1862年)に帰国した。 吉雄忠次郎にその義経=成吉思汗説を聞いてから、風説にすぎなかったその説に文献的裏付けを得るため、『日本』執筆時に白石の『蝦夷志』を、フランス語訳マルテ・ブリューン編『地理及び歴史に関する探検旅行紀集』第24巻で読んだという。しかし二度目の来日(30年後である)でもこの説を日本の友人達に盛んに吹聴している。文久3年(1863年)の松浦武四郎『西蝦夷日誌』二編には蕃書調所の大島高任から次のような話を訊いたという。シーボルトは中国に渡って「建靖寧寺記(けんせいねいじき)」という碑文を見たがこれは蒙古語で全く読めなかった。しかし中国人から大意を聞くと元の太祖はもと日本人で、兄の勘気に触れて蝦夷に渡り、彼らを服従せしめて満州に移って蒙古に赴き、中国を治めて帝位に上り、源氏の源を借りて元と国号を改めた旨が記されているという。これは『柳庵雑記(りゅうあんざっき)」という書に基づくという。蕃書調書の西周 (啓蒙家)も明治2年(1869年)稿の「末広の寿」で、シーボルトが元の太祖は蝦夷に渡った義経であると、再来日した際に話したとしている。シーボルトは洋学者たちに切々とこの説を説いて回ったが殆ど信じてもらえなかった。ただ白石は義経の韃靼行と清祖説には触れているが、全面的に肯定しているわけではなく元祖説にも至っていない。近世中には義経=清祖説が一般的で、韃靼は満州近辺と認識されており、義経の韃靼行は広く信じられていた。シーボルトはこれを『蝦夷志』で抑え、韃靼をモンゴル即ち元と解釈し義経=ジンギスカン説として発表した。 明治時代初期のアメリカ人教師グリフィスが影響を受けてその書『皇國(ミカド 日本の内なる力)』でこの説を論じる。 末松謙澄の「義経再興記」や大正末年に小谷部全一郎によって『成吉思汗ハ源義經也』が著されると大ブームになり、多くの信奉者を生んだ。義経がチンギス・ハンになったという説はシーボルトが最初で、その論文の影響が非常に大きいと岩崎克己は記している。 「#小谷部全一郎の説」も参照 明治以後東洋史が西洋から入り史学者などの反論が大きくなるが、否定されつつも東北・北海道では今も義経北行説を信じる者が根強く存在している。戦後は高木彬光が1958年(昭和33年)に『成吉思汗の秘密』を著して人気を得たが、この頃になると戦前ほどの世間の関心は薄れ、生存説はアカデミックな世界からは取り扱われることはなくなった。
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