そしてハタイ県へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 09:27 UTC 版)
トルコ人の再三のハタイ編入の要求にフランスは同意した。これには当時のナチス・ドイツとの間の軍事的緊張が一部は影響していると考えられる。 1939年ハタイ独立共和国大統領であったショクメンは国民投票に基づいてトルコの県になることを決めた。当時ガズィアンテプとアダナのそれぞれ一部であったハッサ(英語版)、デョルチョル(英語版)の地区はハタイ県のトルコ人の割合を増すため、この県に編入された。この結果多くのアラブ人やアルメニア人がハタイから離れ、シリアの他の地域に移住していった。 この直後、第二次世界大戦が始まる。国際連盟はこの要求に意見する暇さえなかった。
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