シーボルトの説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 01:32 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「シーボルトの説」の解説
1823年に来日したオランダ商館医員のドイツ人医学者シーボルトは本格的な日本研究をおこなって『日本』を著したが、彼はこのなかでこの説を書いている。蝦夷志、読史余論が長崎出島商官長のイサーク・ティチングに翻訳され、コンラッド・マルテ・ブルン が『地理および歴史に関する探検旅行記録集』 に書き、シーボルトはこれを読んでいた。和年契を日本で座右の書とし、この説を確認する。 シーボルトは日本滞在中に、オランダ語通訳の吉雄忠次郎からこの話を聞き、 「義経の蝦夷への脱出、さらに引き続いて対岸のアジア大陸への脱出の年は蒙古人の歴史では蒙古遊牧民族の帝国創建という重要な時期にあたっている。『東蒙古史』には豪族の息子鉄木真が28歳の年ケルレン川の草原においてアルラト氏によって可汗として承認された。…その後間もなくチンギス・ハンははじめオノン川のほとりに立てられた 九つの房飾りのついた白旗を掲げた。…そしてベーデ族四十万の支配者となった。」 と記している。シーボルトが義経=ジンギスカン説を展開したのは嘉永5(1852)年執筆の『日本』第一編「日本の地理とその発見史」第五章のアイヌ民族に関する注10においてである。まず通司・吉雄忠次郎が、義経は自殺せずに蝦夷から韃靼に渡り元の祖となったと確信しているという話と新井白石が『蝦夷志』で義経が韃靼に渡ったと結論しているとことを根拠に以下のような議論を展開している チンギス・ハンが28歳で大汗に即位した年と義経が32歳で自殺した年は等しく1189年であった チンギス・ハンが即位の礼の際に九つの纓(えい)のついた白旗を立てたが源氏も同じく白旗を用いる チンギス・ハンの汗は日本語の守と同じ語源である 白色を尊重するなど大汗の宮廷の風俗習慣が天皇のそれと一致している これだけでは断定に至らず、あくまでも注記の一部として扱っているに過ぎない。 シーボルトは、さまざまな伝承、説話、先駆者達の研究を綿密に検討した結果、義経が蝦夷へ行き大陸へ渡った説を支持した。義経の年齢は殺害されたとする30歳であったはずであるし、源氏の一員として白い旗を揚げたはずである。「ハン[Khan]」という称号は義経が貴族出身者として持っていた日本語の「かみ=守」から導き出せる。義経が死んだとされるのは1189年であり、その後蝦夷から大陸へいけば1190年代にモンゴルに到着したことになる。一方、チンギス・ハンは生年月日が不詳であり、前半生の資料が少なく、1190年代に突如としてモンゴル中央平原に出現し、可能性があるとした。またチンギス・ハンが登場したときの九つの房をつけた白い軍旗や、モンゴルや中国になかった長弓をチンギス・ハンが得意として使い、これは義経がモンゴルに持ち込んだと考えた。ただし、カーン(ハン、ハーン)については『元朝秘史』に他部族の長を合罕と称するという記述があり日本とのかかわりは指摘されていない。
※この「シーボルトの説」の解説は、「義経=ジンギスカン説」の解説の一部です。
「シーボルトの説」を含む「義経=ジンギスカン説」の記事については、「義経=ジンギスカン説」の概要を参照ください。
- シーボルトの説のページへのリンク