柴田収蔵(しばたしゅうぞう 1820-1859)
柴田収蔵は、文政 3年佐渡宿根木の四十物師(あいものし:魚・干物加工業)で名主の長五郎の子として生まれた。小さいときから読書が好きで、書や図書を写すことを好んでしたといい、16歳の時から当地の石井夏海に絵画と篆刻を学んだ。
当時、佐渡奉行所の地方(じかた)付絵図師であった石井夏海(1783-1848)は、江戸に出て司馬江漢から西洋式の測量術を学び、そのころ伊能忠敬の作成した「佐渡実測図」の修正を命じられていた。この石井に腕を見込まれた収蔵は、彼にすすめられて天保10年(1839)20歳の時に江戸で出て、地図技術者を目指して篆刻を学んだ。
帰郷後は、引き続き石井夏海・文海父子の地図作成などの仕事を手伝うことになる。そして天保13年、忠敬の図が訂正されて、「佐渡一国山水図」として完成する。収蔵は、石井氏のもとで勤めながら、師が所蔵する「三国通覧」「伊能図」「蝦夷之全図」「天経或門」などの多くの地図と地理・天文書にふれる。そして翌年、再び江戸に出るのだが、なぜか異なる道を目指す。
シーボルトに学んだ蘭学者伊東玄朴に師事し、医学・蘭学をおさめるのである。当時も庶民の子が医者になることは名誉であり、高い収入が保証されていたこともあるが、彼にとっては周囲を納得させるための手段でもあった。彼は、医学を学ぶ傍らで幕府天文方山路諧孝に測量・地図作成を学んで帰郷した。その後、故郷宿根木の称光寺末寺で医業を開いたが(1845)、地理や地図に対する魅力に勝てず、医業の傍ら「万国全図」の製作にも力を注ぐ。
そして、小木の医師柴田昌琢の養子となって柴田姓を名乗り、自らが製作したこの楕円の地球図「改正地球万国全図、地球萬国山海輿地全図説」(1848出版)を持参して、三度目の江戸遊学を果たした(嘉永3年 1850)。このとき、師となる古賀謹一郎に同図の評を請うと同時に、こんどこそ念願の地理学の指導を受ける。
師の古賀が幕府洋学所頭取に就くと、絵図調出役に採用された(安政2年 1855)。佐渡宿根木の商家の子倅が無類の出世をしたことになる。
収蔵が作成した地図は、この「改正地球萬国全図、地球萬国山海輿地全図説」のほか、洋学所が改称された蕃所調所で手がけた1854年刊の「蝦夷接壌全図」、1852年刊の「新訂坤輿略全図」がある。「蝦夷接壌全図」は、山地表現にヨーロッパから地図から転用した「ケバ」を用いた最初のものではないかと思われ、正確な経緯度やスケールもついている。一方、卵型世界図「新訂坤輿略全図」には、島となった樺太のほか、アルジェリアのフランス領編入、ボストンやニューヨークの記入など最新の情報が盛られ、彼の研究の確かさを知ることができる。
柴田収蔵は、幕末に佐渡が生んだ異色の地理学者であった。残念なことに、長年の大酒がたたったのだろうか蕃所調所の在職中に40歳で亡くなった。

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