大村藩主大村家墓所とは? わかりやすく解説

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大村藩主大村家墓所

名称: 大村藩主大村家墓所
ふりがな おおむらはんしゅおおむらけぼしょ
種別 史跡
種別2:
都道府県 長崎県
市区町村 大村市古町
管理団体
指定年月日 2004.09.30(平成16.09.30)
指定基準 史7
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 大村藩主大村家墓所は、大村湾流入する大上戸川左岸江戸時代玖島城下町北方長崎街道沿いに位置する本経寺所在する近世大名家の墓所である。
大村氏は、戦国時代後半肥前国大村平野を拠点勢力拡大した豪族である。戦国時代末期当主純忠は、大村湾一帯手中に収める戦国大名として成長し南蛮貿易進め天正遣欧少年使節に関わった日本最初キリシタン大名である。大村領内ではキリスト教広まり純忠時代にほとんどの神社仏閣破壊される至った
その後豊臣秀吉天下統一江戸幕府開設とともに2万7千9百石安堵されて初代大村藩となった純忠息子喜前は、幕府の禁教政策忖度して、慶長10年1605)にキリスト教宣教師断交してキリスト教禁教をはじめ、日蓮宗を軸に仏教復興政策を取ることとした。これには熱心な日蓮宗信者肥後大名である加藤清正勧めがあったとされ、大村家菩提寺として、また領内中核寺院として山本経寺が慶長13年(1608)に完成した本経寺建立された地は、天正2年(1574)の耶蘇蜂起により破壊され山伏修験坊の跡地に「耶蘇大寺」なるキリスト教会建てられていたところであるという(『郷村記』)。本経寺火災により数度建て直しがあるが、現在の本堂天明7年(1787)、鐘楼文政7年(1824)、山門文政8年(1825)、三十番神社が文政9年(1826)の再建であって江戸時代建物残り近世大名家の菩提寺様子現代伝えている。
大村家墓所本堂西南側の2,500m2の範囲展開しており、初代藩主喜前から幕末十一代純頼に至る歴代藩主墓塔をはじめ、藩主正室側室子女等の墓塔営まれ続け大村藩家老勤めた松浦家の墓も置かれている。初代二代藩主の墓は墓域東北部東南向き建てられ三代から六代藩主の墓は初代二代対面する形で設けられ中央部広場空間有していたが、19世紀後半至って墓所狭隘となると広場空間九代以降藩主の墓を設けようになった
墓所特徴として、他の大名家墓所において藩主墓塔様式統一されていることが多いのに比較して笠塔婆五輪塔・石霊屋等、多様な様式墓塔建っていることがあげられる歴代藩主を見ると、初代二代六代七代藩主五輪塔三代四代藩主笠塔婆五代八代から十一代藩主は石霊屋となっている。これらの石細工精巧であり、特に石霊屋屋根、貫等に細かい細工施し、かつ全国的に類例少なく石造美術上の価値有している。また、巨大な墓塔が多いのも特徴である。初代二代五輪塔は高さ2mほどであったが、慶安3年(1650)に没した三代藩主純信宝永3年(1706)に没した四代藩主長の墓塔は、それぞれ高さ6mを超える巨大な笠塔婆様式のもので塔身に大きく戒名を刻む。三代以後墓塔巨大化する背景として、17世紀中頃幕府キリスト教禁教政策強化の中、長崎街道の側に位置して人目触れやすい墓所巨大な墓塔建てることにより、大村家がかつてキリシタン大名であった過去払拭し、仏教信仰をより明確に示す意図があったものとも推測されている。
このように、大村藩主大村家墓所は、かつてキリシタン大名であった大村家が、江戸幕府禁教政策の中で造営した墓所であって、他の大名家墓所では見られない多様な様式墓塔巨大な規模墓塔良好に残っており、我が国近世の歴史を知る上で貴重であることから、史跡指定してその保護図ろうとするものである
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