『続・夕陽のガンマン』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:12 UTC 版)
「クリント・イーストウッド」の記事における「『続・夕陽のガンマン』」の解説
『夕陽のガンマン』公開の2か月後、イーストウッドはドル箱三部作の最終作『続・夕陽のガンマン』の撮影に入った。主要キャストには前作で共演したリー・ヴァン・クリーフの他にイーライ・ウォラックが起用され、レオーネが引き続き監督を務めた。当初、イーストウッドは脚本に不満を感じ、ウォラックの方が活躍するという懸念を抱いており、レオーネに対して「最初の映画で私は一人でした。次の映画では二人、ここでは三人です。このままいくと、私はいずれ騎兵隊と出演することになるでしょう」と伝えている。最終的に、イーストウッドは出演料25万ドル、フェラーリの新車1台、アメリカ国内収益の10%を受け取ることで出演に同意したが、同時期に彼の広報戦略を巡り、三部作への出演を支援していたマーシュと、彼の影響力を削ごうとするウィリアム・モリス・エージェンシーとレオナルドとの間に対立が起きた。これに対し、イーストウッドはウェルズの助言を受けてマーシュの仕事をマネージャーの職務に限定して影響力を排除し、今後の広報をガットマン&パムのジェリー・パムに任せた。 1966年5月中旬から撮影は始まり、ローマのスタジオで行われた。その後はスペインに移動し、ブルゴス近くの高原とアルメリアで撮影が行われた。この映画では、砲撃にさらされる町や広大な刑務所、南北戦争の戦場など、前二作よりも大規模なセットが必要となり、数百人のスペイン軍兵士がクライマックスシーンの墓地建設のために動員された。撮影監督はトニーノ・デルリ・コリが務め、彼は光に注意を払うようにレオーネに促された。橋を爆破するシーンの撮影中、イーストウッドとウォラックは橋の側に隠れている設定だったが、イーストウッドは爆発に巻き込まれる危険性を訴え、「私はこれらのことをよく知っています。爆発物から離れましょう」とウォラックに伝えた。数分後、橋は爆破されたがスタッフがカメラを回していなかったため、レオーネは激怒し、橋も新たに作り直す必要があった。スペイン軍の協力で橋は作り直されたが、この一件で製作費が30万ドル余分にかかってしまった。撮影の合間、イーストウッドはウォラックを連れてマドリードを訪れ、ゴルフの練習をして過ごした。また、『ガンマン無頼』を撮影中だったフランコ・ネロと出会い、交流を深めている。 レオーネは様々な角度から同じシーンを何度も撮影することが多く、細部にまでこだわる完璧主義者だったが、そのために出演者は大変な疲労感を味わった。レオーネは大食漢であり、撮影のストレスを食事で癒していた。イーストウッドは、レオーネの大食漢振りを見て「ヨセミテ・サム」とあだ名を付け、彼をジョークのネタにすることで日々のストレスを発散していた。レオーネの映画に出演したのはこれが最後であり、『ウエスタン』への出演依頼が来た際には断っている。レオーネはイーストウッドの自宅に脚本を持って訪れ交渉したが、彼は出演を辞退したため、代わりにチャールズ・ブロンソンが起用された。数年後、レオーネは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の撮影中に、主演のロバート・デ・ニーロに対して「クリントは爆発と銃撃の間を夢遊病患者のように歩き回り、まるで大理石のように冷静だった。ボビー(デ・ニーロ)は俳優だが、クリントはスターだ。ボビーは苦しむが、クリントは欠伸をする」と語っている。 ドル箱三部作は、1967年までアメリカでは公開されず、三部作は同年に続けて公開された。『続・夕陽のガンマン』はヴァン・クリーフの出演シーンが20分ほどカットされたものの、三部作は興行的に成功し、イーストウッドの俳優としての名声はアメリカ国内でも確立された。しかし、興行的な成功にも関わらず、三部作は批評家からは酷評された。ニューヨーク・タイムズのレナータ・アドラー(英語版)は『続・夕陽のガンマン』を「その独特の映画の中で、最も高価で敬虔な忌まわしい映画」と批評し、バラエティは「攻撃的でサディスティックな映画」と批評した。しかし、酷評の中でもヴィンセント・キャンビーやボズレー・クラウザーは、名無しの男を演じるイーストウッドの孤独や涼やかさを表現した演技力を評価している。
※この「『続・夕陽のガンマン』」の解説は、「クリント・イーストウッド」の解説の一部です。
「『続・夕陽のガンマン』」を含む「クリント・イーストウッド」の記事については、「クリント・イーストウッド」の概要を参照ください。
- 『続・夕陽のガンマン』のページへのリンク