『法華経』との関係
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『涅槃経』は他の経典との関連性を随所に説いているが、『涅槃経』は特に『法華経』と密接な関係があり大乗の思想発展や経典成立の過程を見る上で注目に値する。たとえば如来常住は、すでに『金光明経』の如来寿量品で「仏は般涅槃せず、正法また滅せず、衆生を利せんが為の故に当に滅尽する事を示現す」とある。また『法華経』の如来寿量品には、釈迦仏は釈迦族の王位を捨てて出家し修行して菩提樹の下で初めて悟りを得たのではなく、過去の無量無辺の時空間においてすでに成仏していたことを打ちあけ、「しかも実には滅度せず、常に此処に住して法を説く」とある。これは如来の常住思想を端的に表したものである。とはいえ『金光明経』はもとより『法華経』では未来における釈迦仏の常住については『涅槃経』ほど詳細に述べられていない。これに対し『涅槃経』では、『金光明経』や『法華経』で説かれた未来における釈迦仏の常住説をさらに発展させ、詳細に述べている。したがって『法華経』などの経名が『涅槃経』文中にあることから、それよりも後世の創作であると考えられるが、それら既成経典をさらに敷衍し発展させたことが理解できる。 また『涅槃経』では、この常住思想を発展昇華し、釈迦仏滅後の未来世での仏や法、またそれを遵守する僧団は不壊であり永遠のものであるという思想をさらに展開して随所に説いている。いわば『涅槃経』は釈迦仏滅後の未来の救いを大きな柱として最後に編纂されたものと思われる。またこれは大乗仏教の思想を発展させたものであり、如来の常住思想は、方等経典に始まり『法華経』でさらに発展させたものを、『涅槃経』ではまたさらにこれを最終形として編纂されたことがわかる。 一乗思想についても、同じく大乗仏教の思想を発展させたものである。一乗とは一仏乗のことで、すべての衆生がひとしく仏如来となれる唯一の教法を指す。これは現在、一般的に『法華経』がその教えとされている。しかし『涅槃経』は『法華経』の一乗思想も受け継ぎ、さらに弁証法的、発展的な理論展開がなされている。 たとえば『法華経』と『涅槃経』を比べてみるに、まず『法華経』は、『華厳経』・『阿含経』・『方等経』・『般若経』で説いた三乗(声聞・縁覚・菩薩)の方便教を会して一乗の教えに帰せしめる会三帰一を目標として説いた。しかしその三乗の差別を超えてどのように一乗に帰せしめることが可能なのか、その根拠や教説の矛盾が『法華経』ではまったく説明されていない。これは『仏教布教体系』などをはじめ、仏教学で多く指摘される点である。 また『法華経』は、不受余経一偈(『法華経』以外の経典の一言一句も受けてはいけない)、正直捨方便(仮に説いたそれまでの方便の教えを捨てよ)などと、法華以前の教えを排斥している記述が多く見受けられる。したがって『法華経』はそれまでの経典との関連性を断ち、また示さず、それら三乗の差別など各教説の矛盾を一挙に解消できる記述がない。これに対し『涅槃経』では、三乗は立場上は差別はあっても仏性はみな平等にあると説いて、『法華経』よりも具体的な会三帰一の根拠を理論的に説いている。したがって一乗の教えは、いわば『法華経』を始発とし『涅槃経』を終点として説いた、といえよう。 天台智顗は法華優位の立場から『涅槃経』を追説追泯(重ねて追って説いただけ)とした。これは一面正しい。しかし『涅槃経』はただ単に華厳から法華までの要旨を重ねて追って説いただけでなく、涅槃原理というさらに一段高い観点から四諦や空などを新しい解釈を加えて再説している。これは『涅槃経』ならではの大きな特徴であり、この点では単純に重ねて追って説いたとはいえない。また『涅槃経』は『法華経』では成し得なかった既存の教説の矛盾解消を目指していることが見受けられる。『涅槃経』では『法華経』や他経典と同様、自経の優位を示す記述は随所にあるものの、先述の通り『法華経』が不受余経一偈、正直捨方便などと排他的記述が多いのに対し、『涅槃経』ではそのような記述はほとんど無い。それどころか、最終的には『法華経』も含めすべての教説が最終的に『涅槃経』に帰一すると円満融和を説いている。これらから『涅槃経』は、大乗仏教として究極の目標を示そうとした作者たちの高い理念や努力がうかがえる。 また、長らく釈尊に違背し五逆罪を犯したとされる提婆達多は、『法華経』において未来に成仏し天王如来となると説かれている。これは仏教一般では「悪人の成仏」とみなすが、日蓮はさらにこれを「一闡提の成仏」と解釈する。しかし涅槃経では提婆達多は一闡提ではないと明言している。提婆達多に関しては、この二つの経文以外に、多くの経の中で悪人とされており、『涅槃経』と『法華経』の記述のみで、全貌を知ることは出来ないということはある。 なお、『法華経』では提婆達多は逆罪を犯した大悪人だったという直接的な記述はない。これは釈尊と提婆達多が傍からは窺い知れぬ微妙な関係だったことが背景としてあり、またそれが長らく仏教教団全体において語り継がれてきた結果による記述と思われる。この観点は『涅槃経』においても同様に引継がれ、釈尊が提婆達多を罵辱したこともなければ彼が地獄に堕したこともなく、提婆達多は一闡提ではない、また声聞縁覚でもなく、ただ諸仏のみが知見できる所であると、さらに具体的にすすんで言及している。またこれは大乗仏教の観点から言うと、自説に違背する輩をいかに救わんとするかという究極の思想発展として注目に値するものである。
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