『法経』六篇と『九章律』(戦国時代と秦代・漢代)
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「中国法制史」の記事における「『法経』六篇と『九章律』(戦国時代と秦代・漢代)」の解説
『晋書』刑法志(唐代648年に編纂)には、戦国時代の魏の文侯のとき、実務を掌握していた李悝が諸国の法を選択編集し、体系性をもつ刑罰法典の始まりであるとされる『法経』六篇を作ったと伝えられる。財産と人命・身体に対する侵害の罪を定める「盗法」と「賊法」、被疑者の逮捕・拘留などの刑事手続に関する「囚法」と「捕法」、雑多な犯罪を定める「雑法」、科刑上の諸原則の総則である「具法」の6篇から構成される。また同じく『晋書』刑法志は、秦の宰相となった商鞅が『法経』を「律」と改称して受け継ぎ、商鞅変法と呼ばれる国政改革を断行したことと、前202年の前漢創設時に蕭何が、秦の律に「事律」と総称される興律・厩律・戸律の3編を加えて『九章律』と呼ばれることになる9篇の法を作ったと記している。 しかし『法経』と『九章律』の実在性には疑問がもたれていた。前漢の『史記』(紀元前91年)、後漢の『漢書』(92年)には『法経』編纂は記載がなく、蕭何の伝記である『史記』蕭相国世家には「九章」の語も3編の増加の記事もない。『法経』がはじめて現れるのは『晋書』(648年)である。けれども、戦国時代の秦の律を伝える『睡虎地秦簡』には、戦国時代の魏の法律が含まれている。秦の律と魏の法律に何らかの関係がある以上、『法経』の存在は否定できない。 また、『睡虎地秦簡』は、戸口・軍役・租税徴収・穀物管理など、行政に関する雑多な規定を中心としている。蕭何が加えた事律も、行政運用に関する規定が主体であると見られている。前206年の秦の滅亡時に、首都咸陽の文書庫から、法令・戸籍・行政の帳簿などを確保したとされる蕭何が、基本となる刑罰法規に多数の行政規定を付け加えて法典にまとめ、これを前漢の創設時に発布したと考えることも可能である。 前漢を創設した劉邦は、秦を滅ぼしたとき、秦の厳しい法を廃止して『法三章』を約束した。「墨家の法」の原則である「人を殺した者は死刑に処する。人を傷つけた者は肉刑に処する」と記されていたものに「その他の罪を犯した者は、軽重に応じた刑に処する」という文言を付け加え、穏当な刑を定める法の制定を約束したものである。墨家は、劉邦の時代に広く流布していた。秦は魏の刑罰法典を継承・発展させるとともに詳細な行政規定の立法を進めており、前漢初期に蕭何がそれを断片的にまとめ、さらに立法が蓄積されて、漢の法が形成されたことは確かである。 秦や漢で法典が形成されていたかは、法の全体像が不明であるため分からない。しかし、『睡虎地秦簡』や前漢初期の『張家山漢墓竹簡』などの出土法制史料に含まれる行政文書や法令は、高度な法律的思考の産物であるといえ、その背後に体系的な法律(法典)が存在していたことは疑いない。
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