「父」のいない家族の肖像
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「シュザンヌ・ヴァラドン」の記事における「「父」のいない家族の肖像」の解説
1912年、ユトリロ、ユッテル、マドレーヌ、そしてヴァラドン自身を描いた《家族の肖像》(オルセー美術館蔵)を制作した。家族像とはいえ、4人は視線を交わすことなく、それぞれ異なった方向を向いている。正面を向いているのはヴァラドンで、ユトリロは頬杖をついて暗い表情である。家族を理想化するのとは逆に、それぞれが異なる歴史を生きた個人の群像であり、にもかかわらず「濃厚な家族の関係性」を漂わせる作品である。1910年制作の《祖母と孫息子》にも同様の雰囲気がある。若桑みどりはこの作品を「彼女(ヴァラドン)の最大の傑作」であり、「完璧で非の打ちどころのない」構図であると評価し、「悲哀と労働の人生を送ってきた」老婆マドレーヌと、彼女を「いたわるようにその膝に手をかけている」老いた犬、そして「一人の孤独な、とぎすまされた魂をもつ男」ユトリロを描いた作品であり、「〈法律〉であり、〈権威〉であり、ときには〈道徳〉でさえある …〈父〉なるものを完全に欠いた聖家族の肖像」であると絶賛している。 とはいえ、母ヴァラドンに深い愛を抱いていたユトリロは彼女が友人ユッテルの愛人になったことに嫉妬し、精神的痛手を受けていた。3人の共同生活は互いに激しい愛を抱きながら葛藤に満ちた生活であり、モンマルトルで「地獄の3人組」、「呪われた3人組」として知られることになった。一方で、こうした葛藤や激情がそれぞれの画家の創造の源泉となり、制作において最も実り多い時期となった。 1914年7月に第一次世界大戦が勃発。ユッテルは1914年に9月1日にヴァラドンと正式に結婚した後、9月30日に志願兵として出征した。 ヴァラドンはアンデパンタン展、サロン・ドートンヌなど大規模な展覧会に次々と出展し、ユトリロも1910年代に入ると美術評論家のエリー・フォール(フランス語版)やオクターヴ・ミルボー、フランシス・ジュールダン(フランス語版)らに評価されるようになり、1913年にウジェーヌ・ブロ(フランス語版)画廊で最初の個展が行われた。このような画家二人とともに暮らし、「家長役を担わされた」ユッテルは、「家族」を養うために、画商との交渉役を引き受けた。1923年にはコルトー通りのアトリエとは別に、中東部アン県(オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏)のサン=ベルナール(フランス語版)にアトリエを構えた。この地でヴァラドンは、サン=ベルナール城(フランス語版)やサン=ベルナール教会などの風景画を制作している。後期にかけての彼女の作品にはゴッホ、ゴーギャン、マティスの影響が色濃く、かつての前衛性は影を潜めるが、画題として静物画を多く描いたのも晩年である。 1926年にユッテルと別居し、ジュノー通りに越すことができたのはベルネーム=ジューヌ画廊の支援によって、ここにユトリロ名義で住宅を購入することができたからだとされる。1930年代にはフランス政府がヴァラドンの重要な作品を多数買い上げた。これらは現在、国立近代美術館が所蔵し、その一部は他の国立美術館に展示されている。 1935年、51歳のユトリロはヴァラドンの勧めで、彼女の旧友の資産家の未亡人リュシー・ヴァロール・ポーウェルと結婚した。高齢になったヴァラドンはユトリロより12歳年上のこの女性にユトリロの世話を任せたいと思ったのである。《リュシー・ヴァロールの肖像》を描いた1937年の翌1938年4月7日、ヴァラドンは脳溢血のために72歳で死去し、サン=トゥアン墓地(Cimetière parisien de Saint-Ouen)に埋葬された。
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