「在寮期限」闘争
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吉田寮の在寮期限を昭和六十一年三月三十一日とする — 京都大学評議会 1982年12月14日、京都大学の最高意志決定機関である評議会はこのように決定した。つまり吉田寮を1986年3月31日をもって廃寮にするというのである。なお、廃寮の理由には「正常化」ではなく「老朽化」のみを挙げた。当日、吉田寮と同学会のデモ隊が時計台二階に押しかけ評議会の開催を実力で阻止しようとしたが、職員も実力でデモ隊を排除し、学生8名を2階から突き落として重軽傷を負わせた。 大学当局は1986年4月以降の入寮者を正規の寮生と認めなかったので、1985年入寮の「正規寮生」一回生が最短修業年限を迎える1989年3月前後に大学当局が廃寮化に向けたアクションを起こす恐れが高まった。1988年7月22日、学生部は極度の老朽化で1985年以降居住放棄されていた「吉田西寮第Ⅳ棟」を撤去することを吉田寮に通知した。一方、吉田寮は「Ⅳ棟の老朽化は大学当局の長年にわたる補修のサボタージュが原因である」として、この決定を撤回し、寮生・学生と話し合うまで取り壊しを延期するよう要求した。しかし学生部は話し合いに応じず、8月4日午前8時頃、Ⅳ棟を奇襲的に強制撤去しようとした。寮生と支持者らは大学関係者や業者を締め出して抵抗し、午前10時、学生部は強制撤去を諦め、話し合いに応じた。話し合いの中で、学生部は「Ⅳ棟は廃棄物だから処理について寮生と話し合う必要はない」などと主張し、寮生は「空き缶などゴミの処理だって寮生と合意の上で処理しているんだぞ」「(そもそも)Ⅳ棟は廃棄物かどうかも寮生と話し合って決めるべきだ」「(そもそも)人が住めない状態になってしまったのは誰のせいだと思っているんだ」などと反論した。交渉の結果、大学当局は「これまでの吉田寮への補修を行ってこなかったことを認める」「今後吉田寮の補修を行うよう努力する」「老朽化の抜本的対策としての新寮建設の具体的プログラムを示すよう努力する」「話し合いの議題も含めて、寮に関することはすべて寮自治会と話し合い、合意の上決定する」と文書で確約。この文書に満足した吉田寮はⅣ棟の取り壊しに同意し、Ⅳ棟は8月4日から6日にかけて取り壊された。この事件で吉田寮と大学当局の間に雪解けムードが生まれ、以後、両者は紛争終結を目指して話し合いを重ねた。 1988年11月、河合隼雄学生部長は吉田寮との話し合いの席上で「終戦協定」の素案を提案した。それは「吉田寮は寄宿料の納付および寮生名簿の提出を行う。大学当局は西寮を撤去し東寮を補修する。これをもって『在寮期限の執行完了』とする」というものだった。吉田寮は河合案にいくつか注文を付け、1989年1月24日に大学当局と合意に達した。最終的な合意事項はおおむね以下である。 「大学は東寮の補修を行う。西寮代替スペースとしてプレハブを設置する。現寮の補修を行ってこなかったこと、及び今回設置するプレハブが西寮代替スペースとして不十分であることを認め、今後も寮機能の回復、維持、発展に努める。その抜本的解決策として新しい寮の建設に努める。入寮募集停止を解除する。西寮撤去を理由に吉田寮の寮内労働者の削減を行わない。一方、吉田寮自治会は西寮を明け渡す。在寮者名簿の提出と寄宿料の納付を行う。また、大学は今後も継続して学生との話し合いを行う。他の厚生施設に関しても、当事者と話し合うことなく一方的な決定を下さない。また、大学は寮自治会と確認した以上の諸点に関して学生部長名文書に記述し次期以降の学生部長に引き継ぐ」 1989年3月、吉田東寮中庭にプレハブが建設される中、吉田西寮第Ⅰ・Ⅱ棟が撤去され、以後、吉田東寮は吉田寮と呼ばれるようになった。4月14日、吉田寮は在寮者名簿の提出及び寄宿料の納付を行い、4月18日、評議会は在寮期限の執行完了を了承した。吉田寮は存続した。
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