「地上」発表
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1916年8月27日、『萬朝報』懸賞小説に当選し、「加賀平野に芽ぐむもの」が掲載され賞金10円を得る(のちに「地上」第二部に援用)。痼疾の蓄膿症に悩みながらも自伝的長編を綴り、1917年(大正6年)5月、島田に理解を示していた暁烏敏の紹介で6月から11月にかけて『中外日報』に長編『死を超ゆる』の連載が実現(のちの『地上』第二部「地に叛くもの」)。このささやかな成功により、初めて地方の文学愛好の読者と文通を交わすことになり、さらなる文学的雄飛を促すようになっていった。つづく長編第二作(少なくとも千枚)を構想、文通仲間であった大熊信行の勧めに「死を超ゆる」の出版と上京を決意するがまもなく断念。石川県七尾町にあった鹿島郡役所書記補の仕事(月給5円)に就きながら、1918年(大正7年)7月26日、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」にインスパイアされ、自己の内面史を拡大視した長編「地上」を開稿(のちの第一部「地に潜むもの」)、1919年(大正8年)1月31日脱稿した。この間、連載小説(未完)が縁となって中外日報社主・真渓涙骨に迎えられ京都・清水坂に下宿、記者生活を送る(月給50円)。 1918年夏から書き始めた自伝的小説「地上」の原稿は中外日報主筆、伊藤証信(無我苑主宰)の推薦により生田長江に送られ、長江の絶賛と推薦のもと、1919(大正8)年4月上旬新人の書き下ろしをシリーズ的に出版していた新潮社の中村武羅夫(『新潮』担当)、社長佐藤義亮らによって出版が決定した。 1919年6月8日、フランス装の『地上 I 地に潜むもの』上梓(初版3000部、印税なしの契約)。この作品が、芥川龍之介が「僅かに行年二十歳の青年の作であることを思へば、少なくともその筆力の雄健な一点では、殆ど未来の大成を想見せしめるものがある。」と「大正八年度の文藝界(東京日日)」に誌し、菊池寛が後に「第一巻の如き凡庸者の手になるものではない」と評した、実質的な文壇デビューの作となった。 このころ、全国的に大流行したスペイン風邪に清次郎も罹り入院している。東京帝国大学を中心とする学生グループ新人会の新明正道は「島田清次郎論」を発表(『解放』第2巻 1号 1920)、吉野作造の娘、明子も好意的に接したという。その間も『地上』は版を重ね、徐々に三万部を越える。『地上』第二部「地に叛くもの」は、河上肇、福田徳三、厨川白村ら推薦の広告も手伝ってさらに部数を伸ばし、以降も、『早春: 白刃か、然らずんば涙をたゝえて微笑せよ(聚英閣)』『大望(たいもう)』『静かなる暴風(第三部)』『帝王者』『閃光雑記』『勝利を前にして』と、ひたすらに発する連作に、後年「輪転機から札束が湧き出た」と言われるほどであった。『地上』は江馬修の『受難者』、賀川豊彦の『死線を越えて』と並ぶ大正期の代表的なベストセラー(文芸書部門)となる。『地上』の成功に気をよくした島田は「精神界の帝王」と自らを恃み、朝鮮、中国、海外からの熱烈な読者も多くあった。
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