「北アルプス」時代
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「名鉄キハ8000系気動車」の記事における「「北アルプス」時代」の解説
キハ8000系の運用が大きな発展を見せたのは1970年である。この年7月、立山黒部アルペンルートが貫通(開通)し運行区間も夏季限定ではあったが、玄関口である富山地方鉄道立山線立山駅(富山駅経由)まで延長され、列車名も「たかやま」から「北アルプス」へと改称した。このため所要の車両数確保を目的として、キハ8000形・キハ8200形計6両を増備している。 またこの延長運転には名鉄が当時最も注力していた北陸進出の一環との意味合いも込められており、資本参加を画策していた富山地鉄に対する影響力の増大を意識した名鉄の企業戦略に則ったものであった。後に富山地鉄への資本参加(グループ化)は断念したが、その後も良好な協力関係を築くきっかけともなった。 1976年10月、国鉄の増収政策を背景に「北アルプス」は特急列車に格上げされた。塗色は急行色のまま塗分のみ国鉄特急形気動車に準じた形に変更され、運転台窓下に羽根状の帯を入れた。これより、国鉄のキハ82系に一層よく似たものとなった。予備車も少なく一夜にして急行から特急へ変更する経過措置として塗色はそのまま急行色を使用したと思われるが、結局この配色は全廃時まで変更されることはなく、全国で唯一、急行配色のまま運行された特急列車であった。 立山乗り入れは1983年夏まで13年間継続したが、名古屋駅 - 富山駅間の直通客は所要時間の短い北陸本線経由の特急を利用するという実情もあり同年の夏季ダイヤ終了後は神宮前駅 - 飛騨古川駅間に運転区間を固定し、富山地鉄への直通も取りやめた。その後、1985年には再び富山駅まで区間延長されたが、同時に車両運用(連結両数)も見直され余剰となったキハ8100形2両がこの時点で廃車された。この時期には通常キハ8200形またはキハ8000形2両+キハ8050形1両(2M1m)の3両編成での運行が基本となっていた。1988年にはキハ8000形とキハ8050形が全廃となって中間車が存在しなくなり、キハ8200形5両のみが残る体制となった。 国鉄民営化によって発足した東海旅客鉄道(JR東海)は1989年、高山線特急「ひだ」に従来のキハ80系に代わり、大出力エンジン搭載の新車であるキハ85系を投入した。1970年代後半には簡易リクライニングシート、90年代に入れば本格的なリクライニングシートが標準仕様であった優等列車の設備傾向に比し、1960年代の仕様であるキハ80系の「回転クロスシート」より水準の低い狭幅の「転換クロスシート」で、走行性能も、最終的に2基エンジン車のみになったとは言え1960年代の急行形気動車並みであったことや、さらにもともと特急運用を想定していなかったこともあり、台車も金属バネ仕様であったキハ8000系の陳腐化が顕在化した。もとより準急列車への使用を企図した接客設備は準急・急行形としては優秀であったが、特急形の水準としては十分なものではなかった。 1990年には西日本旅客鉄道(JR西日本)エリア内への乗り入れを中止し、再び運転区間を高山駅までに短縮したが翌1991年、「北アルプス」の車両は後継形式のキハ8500系に置換えられ、全車が運用を終了し除籍された。その後、尾西線日比野駅側線に稼動可能な状態で留置され、他社への譲渡を検討したものの車齢と重量が原因で引き取り手は現れず、最後に残ったキハ8200形5両も全て解体された。
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