ようめい‐がく〔ヤウメイ‐〕【陽明学】
陽明学
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陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。西洋では朱子学とともに新儒学(英: Neo-Confucianism)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた[1]。心即理、知行合一、致良知の説を主要な思想とする[1]。
- ^ a b 『大辞泉』
- ^ 島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書、1967年5月20日、119-120頁。ISBN 9784004120285。
- ^ 島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書、1967年5月20日、146-147頁。ISBN 9784004120285。
- ^ a b 荻生 2008, p. 422-427.
- ^ 吉田 1999, 序論.
- ^ 荻生茂博「陽明学」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年) ISBN 978-4-095-23003-0)
- ^ 林田明大、『「真説・陽明学」入門』、三五館、1994年、1ページ、ISBN 4-88320-031-0。
- ^ 三島由紀夫『行動学入門』(文藝春秋、1970年。文春文庫、1974年)に収む。
陽明学
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道教とともに、もう一つの流れが陽明学である。陽明学が朝鮮に入って来たのは16世紀前半だったが、李滉など性理学者の批判で異端として追われながら、文禄・慶長の役の前後の時期に、李瑶・南彦経・崔鳴吉・李睟光・張維などにまた注目を受け、宣祖のような王も深い関心を見せた。 この時期の知識人たちは、陽明学を学問として受け入れるよりは、心を修養する宗教の次元で理解しようとすることが一般的だった。すなわち人は誰でも良知を持っているし、この良知で事物を正さなければならないという、知行一致の理論が改革志向的な人士の関心を引いたのである。そうするうちに、18世紀初、鄭夢周の子孫である鄭斉斗が現れて、はっきりした学問的な席を占めるようになった。彼は、『存言』・『万物一体説』などを書き、理論体系を立てたが、彼の影響を受けて李匡呂・李匡師・李忠翊などが輩出された。 大体、陽明学は、政権から疎外された少論派と李王家の親族、そして庶子の出身の人士の間で家学として続きながら広がったし、江華島を中心に開城・漢陽・忠清道など西海岸地方で支持を得た。 この地域は商業の中心地であり、商業と陽明学の連結も無視することができなかった。しかし陽明学者たちは学問的に性理学を基本にして陽明学を兼行する場合が多く、陽明学は勢力を伸ばすことはできなかった。大韓帝国末期から日本統治時代の李建昌・李建芳・金沢栄・朴殷植・鄭寅普などは、陽明学を継承して国学運動を繰り広げた著名な人士である。
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