サンクトペテルブルク 地理

サンクトペテルブルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/12 23:24 UTC 版)

地理

バルト海東部のフィンランド湾最奥部に位置し、隣国との国境線に近く、フィンランドの首都ヘルシンキ、エストニアの首都タリンとの距離は、それぞれ300km、350kmである[4]。一方、首都のモスクワとは直線距離で600km以上離れている。(東京函館、東京~広島間の距離に相当)

行政上はモスクワ、セヴァストーポリとともに単独で連邦市を形成しており、これら2都市と同じく都市単独で連邦構成主体となっている。世界の100万都市の中では最も北に位置する。

市街はネヴァ川河口デルタの島々を結ぶ運河網が発達しており、ネヴァ川は運河や河川などにより、白海ドニエプル川ヴォルガ川と結ばれているため、この都市はカスピ海やウラル、ヴォルガからの船舶のバルト海への出口となっている。港は冬季となる11月から4月に凍結するが、厳寒期を除き常に砕氷船がこれらの航路を維持している。

歴史

前史

ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「ヴァリャーグからギリシアへの道」と呼ばれた重要な交易ルートに位置し、ルーシの北辺に位置していた。キエフ大公国分裂後の1136年、北方にノヴゴロド公国が建国された。首都ノヴゴロドはネヴァ川水路でバルト海と繋がっており、ハンザ同盟の4大商館のひとつが置かれ、商業の中心地として繁栄した。また、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンとの国境地帯ともなっていた。1240年には両国の間にネヴァ河畔の戦いが起こり、この戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド公国側が勝利し、その後アレクサンドルは自らの名に「ネヴァ川の勝利者」という意味を持つ「ネフスキー」という名を加え、アレクサンドル・ネフスキーを名乗るようになった。その後はモスクワ公国領となっていたが、1617年ストルボヴァの和約によりスウェーデンがここを支配下に置いた。ほどなくスウェーデンは三十年戦争を通じて、バルト海南岸に領土を拡大し、バルト海沿岸の交易を独占する大帝国となった(バルト帝国)。

ロシア帝国時代

1700年に始まった大北方戦争でスウェーデンの要塞を陥落させ、ネヴァ川河口を占領したピョートル1世は、1703年5月27日(当時ロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)にペトロパヴロフスク要塞の建設を開始した。これがサンクトペテルブルクの歴史の始まりとされ、現在では5月27日は建都記念日として市の祝日となっている[5]。当時、この地域はイングリアと呼ばれ、荒れ果てた沼地であったが、ピョートル1世は、内陸のノヴゴロドに代わるロシアの新しい貿易拠点となる都市を夢見ていた。建設は戦争と同時進行であったため労働条件は過酷で、1万人ともいわれる人命が失われたという。建設費用と戦費は借款によって賄い、後に貿易によって生じる利益で返済する計画だったため、経済面においてこの都市にかかる期待は非常に大きかった。1713年、ポルタヴァの戦いに勝利後、この地が首都と定められた。1721年、大北方戦争が終結し、ロシアと同盟国側の勝利となり、戦後のニスタット条約によりフィンランド湾沿岸のスウェーデン領が正式にロシアに編入された。

1725年皇帝エカチェリーナ1世がサンクトペテルブルクに科学アカデミーを創設した。同年、人口が10万人を超えた[6]。翌年ロシアがウィーン同盟に加盟したため、ロシアの仮想敵国はプロイセンだけとなった。1728年イスタンブールに印刷所が開設され、オスマン帝国の情報が黒海経由で科学アカデミーに集積され、ライン川へ送られた。1734年、英露通商条約[7]。ロシアはオーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒに軍政を委ね、アゾフ海クリミア半島の奪取に成功した。

歴代ロシア皇帝は帝都サンクトペテルブルクの整備を続け、1754年には皇帝が冬の時期を過ごす宮殿として冬宮が完成し、ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られた。1757年には演劇アカデミーが創設された。エカチェリーナ2世の時代の1762年には冬宮の一角に後のエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。1766年、再び英露通商条約を締結[7]。1768年に貨幣改革をして、翌年1月にロシア初の紙幣であるアシグナツィアを流通させた[8]。この年アムステルダムでロシア初の外債も発行した[8]。このため市章はラバルムをモチーフとした。1779年、アシグナト銀行が設立された。ペテルブルクで銀行業務を行いながら、地方都市に割引事務所を開設した[8]。1787年、仏露通商条約[7]

1800年、サンクトペテルブルクの人口が22万人に達する[6]フランス皇帝ナポレオン1世の侵攻による1812年の祖国戦争において第2の都市モスクワが壊滅したがサンクトペテルブルクは戦火には見舞われず、1817年、アシグナト銀行本体と割引事務所が母体となり、国立商業銀行が誕生した[8]1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設された。1825年にはデカブリストの乱が起きたもののすぐに鎮圧された。1837年にはペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間にロシア初の鉄道が建設された。この鉄道事業には、ベアリングス銀行ホープ商会が投資していた[8]1851年にはモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ鉄道が完成した[9]。1860年、政府は国立商業銀行などを統合して、国立銀行を設立した。このときロスチャイルドのロシア投資を仲介するアレクサンドル・スティグリッツが初代総裁となった[8]。1869年、人口は67万人になった[6]。1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本の岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』に詳しく記されている[10]

1910年時点におけるサンクトペテルブルクの地図
ロシア革命時、冬宮前に押し寄せる民衆

1894年、ロシアがドイツ帝国と通商条約を結んだ。1897年、国立銀行が中央銀行となる。1898年6月、国立銀行が露清銀行の新株を全部引き受けて、パリバの支配に対抗した。19世紀末には聖イサアク大聖堂血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物の多くはこの時期に建設された。また、サンクトペテルブルク市民の経済力も向上したため、ネフスキー大通りを中心に豪奢な建築物が立ち並ぶようになった。

1905年10月、サンクトペテルブルクでソビエトゼネストを起こす。1907年、英露協商1910年には人口は190万人に達していた[6]。同年、露亜銀行が誕生した。この頃、株式商業銀行を含めたサンクトペテルブルクの銀行群がロシアの金融界で支配力を急速に増した[8]。これらは露仏同盟などをきっかけに都市開発が進んだ結果である。1912-14年、ロシアの大銀行がパリロンドンなどの国際金融市場へ支店・持株会社を設立した[8]。1913年にもサンクトペテルブルクでゼネストが起きていた。

ソビエト連邦時代

スモーリヌイ修道院 ソビエト政権独立宣言がここで行われ、首都がモスクワに移されるまでソビエト政府の中枢であった

ロシア革命では二月革命十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉軍の派遣を恐れ、首都を国境地帯に近いペトログラード(サンクトペテルブルク)からモスクワに移転。1922年にモスクワが正式に首都と定められたことで、サンクトペテルブルクは首都の地位を失った。1924年にロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンが死去すると、その功績を称えペトログラードは「レーニンの街」の意であるレニングラードに改名された。

レニングラードはフィンランドとの国境地帯に近いため、有事の際はフィンランド軍によって占領される危険性があった。そこでヨシフ・スターリンはフィンランドに対してレニングラード周辺のフィンランド領の割譲を要求したが、フィンランド政府がこの要求を断固拒否したため、1939年冬戦争が勃発。当時のソ連軍とフィンランド軍の戦力差は絶望的であり、当初はソ連の圧勝かと思われたが、フィンランドは善戦し、ソ連軍は多大な犠牲を払うこととなった。しかし結局翌1940年にはレニングラード周辺地域の割譲をもって講和がなされ(モスクワ講和条約)、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営への参加を招いた。第二次世界大戦中は、フィンランドとドイツ軍による約900日(872日[2])、足掛け4年にもわたる包囲攻撃を受けた(レニングラード包囲戦)。枢軸軍はレニングラード市民の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生したが、ソ連側はこの苦境を耐え抜き、最後までにレニングラードがドイツ・フィンランド軍の占領を受けることはなかった。その功績により、レニングラードは英雄都市の称号を与えられた。

戦後もレニングラードはソ連第二の都市として大きな存在感を持っており、その歴史的経緯や地理的要因から首都であり最大都市のモスクワとは違った文化や風土を維持した。また、レニングラードの共産党第一書記になることはソビエトの政治体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力闘争でも大きな影響力を持つことになった。なお、ロシア革命以降でレニングラード(サンクトペテルブルク)出身者がロシアのトップに登り詰めたのはソ連崩壊後の2000年ロシア大統領に選ばれたウラジーミル・プーチンが初めてである。

ロシア連邦成立後

1998年に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市やクロンシュタット等)を編入し、市域が拡大した。2008年5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなった。2006年には第32回主要国首脳会議(G8サミット)、2013年にG20が開かれている。会場はストレルナロシア語版コンスタンチン宮殿ロシア語版[11]

2013年よりラフタ・センターという、高層ビルを含む5つの建物で構成される複合施設が市の郊外に建設されている。高層ビルは高さ462mに達しており、完成すればロシア及びヨーロッパでもっとも高いビルとなる。

2019年10月1日より、電子査証によるサンクトペテルブルクおよびレニングラード州への訪問が可能となった[12][13]

気候

ケッペンの気候区分では亜寒帯亜寒帯湿潤気候または湿潤大陸性気候 (Dfb) に属する。北緯60度と非常に高緯度にあるため、5月半ばから7月半ばの2ヶ月間は昼が長く、日の入り後、日の出前も薄明の時間が長い。その一方で、冬の日照時間は非常に短い。冬の寒さは暖流の影響でロシア内陸部やモスクワよりは温和であるが、-25度前後の日々が一週間程度続くことも珍しくない。年間降雪量は297cmほどと欧州の都市のなかでは多い。高緯度に位置するため、可照時間が増えてくる2月が最寒月である。過去最低気温は1883年の−35.9度、過去最高気温は2010年8月の37.1度である。

サンクトペテルブルク(1991~2020)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 8.7
(47.7)
10.2
(50.4)
15.3
(59.5)
25.3
(77.5)
33.0
(91.4)
35.9
(96.6)
35.3
(95.5)
37.1
(98.8)
30.4
(86.7)
21.0
(69.8)
12.3
(54.1)
10.9
(51.6)
37.1
(98.8)
平均最高気温 °C°F −3.1
(26.4)
−2.4
(27.7)
2.3
(36.1)
9.5
(49.1)
16.3
(61.3)
20.5
(68.9)
23.3
(73.9)
21.4
(70.5)
15.9
(60.6)
8.7
(47.7)
2.8
(37)
−0.5
(31.1)
9.1
(48.4)
日平均気温 °C°F −4.8
(23.4)
−5.0
(23)
−1.0
(30.2)
5.2
(41.4)
11.5
(52.7)
16.1
(61)
19.1
(66.4)
17.4
(63.3)
12.4
(54.3)
6.2
(43.2)
0.9
(33.6)
−2.5
(27.5)
6.29
(43.33)
平均最低気温 °C°F −7.2
(19)
−7.6
(18.3)
−4.0
(24.8)
1.7
(35.1)
7.2
(45)
12.2
(54)
15.3
(59.5)
13.9
(57)
9.4
(48.9)
4.1
(39.4)
−0.9
(30.4)
−4.5
(23.9)
2.7
(36.9)
最低気温記録 °C°F −35.9
(−32.6)
−35.2
(−31.4)
−29.9
(−21.8)
−21.8
(−7.2)
−6.6
(20.1)
0.1
(32.2)
4.9
(40.8)
1.3
(34.3)
−3.1
(26.4)
−12.9
(8.8)
−22.2
(−8)
−34.4
(−29.9)
−35.9
(−32.6)
降水量 mm (inch) 46.4
(1.827)
35.8
(1.409)
35.6
(1.402)
36.9
(1.453)
47.1
(1.854)
69.0
(2.717)
83.7
(3.295)
86.5
(3.406)
57.2
(2.252)
63.6
(2.504)
56.3
(2.217)
50.8
(2)
668.9
(26.336)
出典:Pogoda.ru.net[14]

  1. ^ 江上波夫 ・山本達朗 ・ 林健太郎成瀬治。『詳説世界史 改訂版』(高等学校 地理歴史科用文部省検定済教科書。1997年3月31日文部省検定済。1999年3月5日 発行。教科書番号 81 山川 世B575。 山川出版社 ) p 173, p 285に「1703年、バルト海沿岸にペテルブルク(→p. 285注①)を建設し, ここに首都を移した」、「戦争開始後、ペテルブルクを改称してペトログラードとなった。
  2. ^ a b c ニューズウィーク1991年6月27日, p. 11.
  3. ^ 不況の今、ソ連文化の良さに注目が集まるJBpress
  4. ^ ヘルシンキおよび駐日エストニア共和国大使館公式ホームページ参照
  5. ^ Законодательное Собрание Санкт-Петербурга. Закон №555-75 от 26 октября 2005 г. «О праздниках и памятных датах в Санкт-Петербурге», в ред. Закона №541-112 от 6 ноября 2008 г. (Legislative Assembly of Saint Petersburg. Law #555-75 of October 26, 2005 On Holidays and Memorial Dates in Saint Petersburg. ).
  6. ^ a b c d 「新版 ロシアを知る事典」p311 平凡社 2004年1月21日発行
  7. ^ a b c 武田元有
  8. ^ a b c d e f g h 塩谷昌史 サンクト・ペテルブルクとロシア系ユダヤ商人經濟學雜誌 114(3), 76-93, 2013-12
  9. ^ 「図説 ロシアの歴史」p90 栗生沢猛夫 河出書房新社 2010年5月30日発行
  10. ^ 久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、47~110頁
  11. ^ コンスタンチン宮殿大辞泉 - goo辞書
  12. ^ Указ Президента Российской Федерации от 18 июля 2019 г. N 347 "О порядке въезда в Российскую Федерацию и выезда из Российской Федерации иностранных граждан через пункты пропуска через государственную границу Российской Федерации, расположенные на территориях г. Санкт-Петербурга и Ленинградской области"
  13. ^ From October 1, enter Russia on free e-visa for up to 8 days from St Petersburg - Times of India
  14. ^ Pogoda.ru.net” (Russian). 2007年7月29日閲覧。
  15. ^ ニューグローヴ世界音楽大辞典. 20. 講談社, 1994, p212
  16. ^ Трамвайная столица - миф Санкт-Петербурга?2020年12月31日閲覧
  17. ^ “Saint Petersbrug doubles investments for underground development”. Railway Pro Magazine VIII (4.12. (102)): 39. (2013-12). https://issuu.com/alex.biris/docs/railwaypro_december/39 2018年7月29日閲覧。. 
  18. ^ 大前研一『ロシア・ショック』(講談社、2008)
  19. ^ 大阪市ホームページ 姉妹都市(サンクト・ペテルブルグ)2020年8月12日閲覧
  20. ^ a b c d e f g Saint Petersburg in figures – International and Interregional Ties”. Saint Petersburg City Government. 2008年3月23日閲覧。[リンク切れ]
  21. ^ Yerevan Municipality – Sister Cities”. 2005–2009 www.yerevan.am. 2009年6月22日閲覧。[リンク切れ]
  22. ^ Guide to Vilnuis”. 2008年12月1日閲覧。[リンク切れ]
  23. ^ Twin cities of Riga”. Riga City Council. 2008年12月1日閲覧。[リンク切れ]
  24. ^ http://www.gorod.lv/o_gorode






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