多角経営への道とは? わかりやすく解説

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多角経営への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:50 UTC 版)

岡田茂 (東映)」の記事における「多角経営への道」の解説

一方で多角化推進しテレビの普及苦し他社尻目にテレビ吸い込まれないお客取り込み不良性感度映画標榜洋画流行に乗っかり、和製オカルト映画和製パニック映画和製格闘映画和製SF映画和製残酷映画マシン路線次々死屍累々企画打ち出す菅原文太の『仁義なき戦い』を初めとする「実録路線」や、大号令をかけて「東映ポルノ」を批判押しのけ他社先駆け量産した。「実録映画」という呼称は、1972年イタリア映画バラキ』あたりから用いられるようになったものだが、用語として確立定着するのは『仁義なき戦い』を「実録映画路線」の第一弾として発表してからで、これが大成功をおさめ、次々連作されて、一気普及したもの。『仁義なき戦い』や『山口組三代目』など実録映画爆発的ヒットがあった1973年年間配收80億円と創立2番目の記録更新した。「実録路線」はスタンダード化しその後Vシネマなどでも、実録なければ売れないという公式が確立された。「東映ポルノ」では、抜擢した天尾完次プロデューサーが、石井輝男鈴木則文とのコンビで、アメリカでよく使われていたが日本では一般化されていなかった“ポルノ”という言葉移植池玲子売り出しに“日本のポルノ女優第一号”“ポルノ映画誕生”という惹句つかった1972年から始まる“日活ロマンポルノ”が“ポルノ”の言葉浸透させたが、造語的には東映アイデア拝借である。石井の“異常性愛路線”のスタートとなった三原葉子谷ナオミ賀川雪絵出演エロ大作徳川女系図』の大ヒットは、大手映画会社の性モラル防波堤一気決壊日本映画エロ埋め尽くす程で、影響映画界のみならず音楽界歌謡ポップスにまで及ぼした。これを皮切りに日活の『野良猫ロックシリーズ対抗して池玲子杉本美樹大信田礼子らの『女番長ずべ公番長シリーズ梶芽衣子多岐川裕美夏樹陽子らの『女囚さそりシリーズ』などを編み出しエロ映画量産した。『女囚さそりシリーズ』の成功は、企画困窮していた邦画各社こぞって劇画原作実写化するきっかけとなったタランティーノ影響から、2000年代日本国外続々DVD化されており再評価(初評価)が進む。『女囚さそりシリーズ』の第4弾女囚さそり 701号怨み節』(1974年正月映画)と併映だったのが高倉健の新企画ゴルゴ13』である。 1970年前後には他社二倍近い興行収入上げた。 しかしこの後千葉真一志穂美悦子らの格闘映画大ヒットし、千葉の作品海外でも大ヒットすると、ポルノ映画主流日活大蔵映画などに移ったこともあって東映ポルノアッサリ切り捨て多くカラテ映画シリーズ化させた。1972年6月それまで事業部門社長指令忠実な実施であったワンマン経営から、全社上げて経営に当たるという"経営第一主義"を打ち出す全社的機構改革事業部制導入映画事業部、テレビ事業部(テレビランド創刊等)、教育事業部観光不動産事業部スポーツ事業部、および各支社に関連事業室を発足させ、東西撮影所にも事業部設けられ新し収益源開拓することになった。全事業部門例外なく己の担当する分野で、新たな収益原を開拓せよと命じたのである。また本社宣伝部内に宣伝開発課を開設しその後宣伝事業部映像事業部に昇格。これらの事業部レコード原盤PR映画制作演劇公演やアニメーションフェスティバル、催事ショーキャラクターショー子供ショー)、地方博パビリオン映像制作新聞社テレビ局組みエジプト展」や「全国郷土祭」(日商主催)など文化事業手掛けた1975年には撮影所の有効利用策として、我が国テーマパークのはしりとも言うべき東映太秦映画村オープンさせた。 大川博からは洋画絶対にやるなと言われていたが、1972年5月洋画部東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出。とくにブルース・リーアラン・ドロン買い付けで、洋画界にセンセーションまきおこす。この洋画部香港製のカンフー映画だけを扱いつつ、邦画まで扱うという部門と、洋画のみ扱う東映ユニバースフィルム1981年12月発足1984年3月東映クラシックフィルム改称)というのがあった。1973年テレビランド』を徳間書店に移す。正面から日露戦争描きたい笠原和夫指示して制作した二百三高地』の大ヒットは、各社大作路線本格化させた。フジテレビ退社した五社英雄カムバックさせ『鬼龍院花子の生涯』『極道の妻たちシリーズなど“女性文芸大作路線”を生み出した1975年香港ショウ・ブラザーズ提携。カンフーブームで買い付けた『ドランクモンキー 酔拳』などジャッキー・チェン映画で、ジャッキーフィーバーを起こした。また労組問題混乱していた系列東映動画1974年親友今田智憲社長に据えて建て直し日本アニメ日本国外進出大きな推進役となった。その他、テレビ放映では商業的に失敗終わり、どこの映画会社断った劇場版『宇宙戦艦ヤマト』西崎義展から買い付けしたのを手始めに、続編『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』など、一連の宇宙戦艦ヤマトシリーズ『銀河鉄道999』などの松本零士作品アニメ化映画化して大きな収益上げた『宇宙戦艦ヤマト』1977年8月劇場公開されたとき、“アニメブーム”なる言葉生まれ、この作品大ヒットから、それまでテレビ夕方の子供向けの時間帯ひしめいていたアニメーション映画大型化されて劇場進出するようになった1970年代後半からは自前主義から転じて独立プロダクション提携力を入れ、損を出さない体制シフトした。これらは1960年代半ばから岡田手掛けた縮小合理化システム延長線上にあるもの。1983年東陽一に撮らせた『セカンド・ラブ』(1983年)などは、東映資本ながら東映スタッフ皆無映画であった角川春樹後ろ盾となり、タッグ組んで一時代を築く。その他、1974年岡田目論んだ"共産党実録"という企画実現しなかったが、岡田試みた大組織に映画公開前に前売り券売り捌くという手法は、その後夜明けの旗 松本治一郎伝』や『空海』、『福沢諭吉』などの伝記映画や、東映でかけられ幸福の科学出版製作の『太陽の法 エル・カンターレへの道』(2000年)、『黄金の法 エル・カンターレの歴史観』(2003年)のアニメなどが、東映ビジネスモデルとして引き継がれた。ただし、幸福の科学との繋がり2009年幸福実現党による政治進出危惧して仏陀再誕 The REBIRTH of BUDDHA』を最後に切れている。 テレビ映画に関しては、大川博時代引き続き制作進め、『暴れん坊将軍』『遠山の金さん』などの時代劇、『特別機動捜査隊』『鉄道公安36号』などの現代劇、『さすらい刑事旅情編』に始まる『刑事シリーズ、初の2時間ドラマとして特筆される土曜ワイド劇場』、一世を風靡した『ジャイアントロボ』『仮面ライダー』仮面ライダーシリーズ)、『人造人間キカイダー』超人バロム・1』などの特撮変身ヒーローもの、『秘密戦隊ゴレンジャー』などのスーパー戦隊シリーズ、『宇宙刑事ギャバン』から始まるメタルヒーローシリーズ、『柔道一直線』『スケバン刑事』などを生み出した『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在キャラクター商品の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている。1975年テレビ版権営業部設立し版権収入拡大力を入れる。ビデオ時代到来対応する体制作りにも乗り出し1977年8月東映芸能東映ビデオ合併させ東映芸能ビデオ設立(のち東映ビデオ)。翌1978年にはビデオ制作強化のため東映ビデオセンターを設立しこの年カラオケビデオを発売した。また一本立て大作主義による下番線の本数不足を補うため1977年12月ATG商業映画版ともいうべき、東映セントラルフィルム設立日活から黒澤満東映ビデオ製作部門の長として引きぬき、東映セントラルフィルムと組ませて低予算映画制作するセクション設立され、これが後にセントラルアーツとなる。家庭用ビデオデッキ普及に伴い1980年前半にはポルノビデオアダルトビデオ)が爆発的に売れた1980年東急グループ興行会社東急レクリエーション社長に就任16年ぶりに東急グループ復縁し五島慶太五島昇対す不義理解いた映画の日」の全国普及にも貢献1984年日本衛星放送WOWOW設立非常勤取締役(〜2001年)。1986年黒木瞳を『化身』で、映画主演デビューさせた。1989年3月期決算東映として初め総売上1000億円の大台乗せる1990年夏から「東映まんがまつり」を鳥山明絞った番組編成の「東映アニメフェア」に転換させた。1993年東映会長1996年ルパート・マードック孫正義によるテレビ朝日買収阻止した1997年11月時代劇コンテンツ推進協議会」を立ち上げる(#時代劇復興)。晩年各地映画祭などで、このような東映映画史面白おかしく講演して好評であった戦後の日本娯楽産業を創った一人である。瀬川昌治は「岡田さん人生そのまま東映躍進歴史つながっているといって過言ではない」と述べている。日本経済新聞社岡田を「邦画の礎を築いた男」「戦後映画史とともに人生歩んできた男」、サンケイスポーツは「昭和平成通じて人生そのもの映画の歴史重な傑物だった」、松岡功は「岡田さん映画界ドン。今の映画界があるのは岡田さんおかげです日本映画復興に、あれだけ尽力した人はいません。時代変わったということありますが、岡田さんのような方はもう出てないと思います」と評した親分肌豪放な性格知られ仁義なき戦い』の広島弁岡田社内での罵詈雑言脚本笠原和夫参考にした、という逸話を持つ。また付き合い広さでも知られ映画・芸能のみならず多く経済界交流持った早稲田大学出身で縁の無い小渕恵三後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者呼びかけ作った。また岡田を慕う人達が多く岡田一家、岡田学校呼ばれたりした。沢島忠は「結婚監督になれたのも岡田さんのおかげ。面倒見の良い兄貴偉大な親分あれほど多く映画人に慕われた人はいない」、北大路欣也は「人生生ききり、どんなに素晴らしいかと思う。男として憧れの的でした」、里見浩太朗は「すばらし指揮官だった。あんな人はもう出てこないんじゃないかな。背が高くて二枚目ダンディー俳優女優あこがれだった」と話した1978年から1995年まで日本映画製作者連盟会長この他映画産業団体連合会会長日本映画テレビ製作者協会理事長日本映画海外普及協会理事長テレビ朝日会長(株)東急レクリエーション代表取締役会長など多く要職に就く。日本映画製作者連盟会長映画産業団体連合会会長通算30年務め日本映画復興尽力した1974年城戸賞創設関わり以降1994年まで審査委員長務める。1978年日本アカデミー賞創設にも尽力会長名誉会長歴任し、その功績称えて第30回迎えた2007年度より同賞で初め個人名冠した岡田茂賞が新設された。撮影所所長としても辣腕振るった岡田多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性芸術性合わせ持った高品質映画製作した製作プロダクション」を顕彰する。1985年瀬島龍三らと東京国際映画祭創設。 その他、1982年5月地方自治体初めての映画音楽資料収集保存する専門施設広島市映像文化ライブラリー広島市立中央図書館併設)の開館にも尽力した1990年岡田主人公にした『映画三国志小説東映』という小説が、岡田師匠挙げる大下英治作で徳間書店から出ている。これを原作として笠原和夫脚本担当し岡田母親にまで会うなど徹底取材した2時間ドラマが、普段洋画放送する日本テレビ系金曜ロードSHOW!」同年6月1日放送され中村雅俊岡田を、妻の役は黒木瞳演じた

※この「多角経営への道」の解説は、「岡田茂 (東映)」の解説の一部です。
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