多角経営への道
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一方では多角化を推進し、テレビの普及で苦しむ他社を尻目に、テレビに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜。洋画の流行に乗っかり、和製オカルト映画、和製パニック映画、和製格闘映画、和製SF映画、和製残酷映画、マシン路線と次々、死屍累々の企画を打ち出す。菅原文太の『仁義なき戦い』を初めとする「実録路線」や、大号令をかけて「東映ポルノ」を批判を押しのけ他社に先駆け量産した。「実録映画」という呼称は、1972年のイタリア映画『バラキ』あたりから用いられるようになったものだが、用語として確立、定着するのは『仁義なき戦い』を「実録映画路線」の第一弾として発表してからで、これが大成功をおさめ、次々連作されて、一気に普及したもの。『仁義なき戦い』や『山口組三代目』など実録映画の爆発的ヒットがあった1973年は年間配收約80億円と創立2番目の記録を更新した。「実録路線」はスタンダード化し、その後のVシネマなどでも、実録でなければ売れないという公式が確立された。「東映ポルノ」では、抜擢した天尾完次プロデューサーが、石井輝男や鈴木則文とのコンビで、アメリカでよく使われていたが日本では一般化されていなかった“ポルノ”という言葉を移植、池玲子の売り出しに“日本のポルノ女優第一号”“ポルノ映画誕生”という惹句をつかった。1972年から始まる“日活ロマンポルノ”が“ポルノ”の言葉を浸透させたが、造語的には東映のアイデアの拝借である。石井の“異常性愛路線”のスタートとなった三原葉子、谷ナオミ、賀川雪絵ら出演のエロ大作『徳川女系図』の大ヒットは、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くす程で、影響は映画界のみならず音楽界・歌謡ポップスにまで及ぼした。これを皮切りに日活の『野良猫ロック』シリーズに対抗して池玲子、杉本美樹、大信田礼子らの『女番長・ずべ公番長』シリーズ、梶芽衣子、多岐川裕美、夏樹陽子らの『女囚さそりシリーズ』などを編み出しエロ映画を量産した。『女囚さそりシリーズ』の成功は、企画に困窮していた邦画各社がこぞって劇画原作を実写化するきっかけとなった。タランティーノの影響から、2000年代に日本国外で続々DVD化されており再評価(初評価)が進む。『女囚さそりシリーズ』の第4弾『女囚さそり 701号怨み節』(1974年正月映画)と併映だったのが高倉健の新企画『ゴルゴ13』である。 1970年前後には他社の二倍近い興行収入を上げた。 しかしこの後、千葉真一・志穂美悦子らの格闘映画が大ヒットし、千葉の作品は海外でも大ヒットすると、ポルノ映画の主流が日活・大蔵映画などに移ったこともあって東映ポルノをアッサリ切り捨て、多くのカラテ映画をシリーズ化させた。1972年6月、それまで各事業部門が社長指令の忠実な実施体であったワンマン経営から、全社上げて経営に当たるという"経営第一主義"を打ち出す。全社的な機構改革で事業部制を導入、映画事業部、テレビ事業部(テレビランドの創刊等)、教育事業部、観光不動産事業部、スポーツ事業部、および各支社に関連事業室を発足させ、東西両撮影所にも事業部が設けられて新しい収益源を開拓することになった。全事業部門に例外なく己の担当する分野で、新たな収益原を開拓せよと命じたのである。また本社宣伝部内に宣伝開発課を開設し、その後宣伝事業部、映像事業部に昇格。これらの事業部がレコードの原盤やPR映画の制作、演劇公演やアニメーションフェスティバル、催事ショー(キャラクターショー、子供ショー)、地方博のパビリオンの映像制作、新聞社やテレビ局と組み「エジプト展」や「全国郷土祭」(日商主催)など文化事業を手掛けた。1975年には撮影所の有効利用策として、我が国テーマパークのはしりとも言うべき東映太秦映画村をオープンさせた。 大川博からは洋画は絶対にやるなと言われていたが、1972年5月、洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出。とくにブルース・リーとアラン・ドロンの買い付けで、洋画界にセンセーションをまきおこす。この洋画部は香港製のカンフー映画だけを扱いつつ、邦画まで扱うという部門と、洋画のみ扱う東映ユニバースフィルム(1981年12月発足、1984年3月東映クラシックフィルムに改称)というのがあった。1973年『テレビランド』を徳間書店に移す。正面から日露戦争を描きたいと笠原和夫に指示して制作した『二百三高地』の大ヒットは、各社大作路線を本格化させた。フジテレビを退社した五社英雄をカムバックさせ『鬼龍院花子の生涯』『極道の妻たち』シリーズなど“女性文芸大作路線”を生み出した。1975年香港のショウ・ブラザーズと提携。カンフーブームで買い付けた『ドランクモンキー 酔拳』などジャッキー・チェン映画で、ジャッキーフィーバーを起こした。また労組問題で混乱していた系列の東映動画に1974年、親友の今田智憲を社長に据えて建て直し、日本アニメ日本国外進出の大きな推進役となった。その他、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った劇場版『宇宙戦艦ヤマト』を西崎義展から買い付けしたのを手始めに、続編の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』など、一連の宇宙戦艦ヤマトシリーズ、『銀河鉄道999』などの松本零士作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた。『宇宙戦艦ヤマト』が1977年8月に劇場公開されたとき、“アニメブーム”なる言葉が生まれ、この作品の大ヒットから、それまでテレビの夕方の子供向けの時間帯にひしめいていたアニメーション映画が大型化されて劇場に進出するようになった。 1970年代後半からは自前主義から転じて独立プロダクションと提携に力を入れ、損を出さない体制にシフトした。これらは1960年代半ばから岡田が手掛けた縮小・合理化システムの延長線上にあるもの。1983年に東陽一に撮らせた『セカンド・ラブ』(1983年)などは、東映資本ながら東映のスタッフは皆無の映画であった。角川春樹の後ろ盾となり、タッグを組んで一時代を築く。その他、1974年に岡田が目論んだ"共産党の実録"という企画は実現しなかったが、岡田の試みた大組織に映画公開前に前売り券を売り捌くという手法は、その後『夜明けの旗 松本治一郎伝』や『空海』、『福沢諭吉』などの伝記映画や、東映系でかけられる幸福の科学出版製作の『太陽の法 エル・カンターレへの道』(2000年)、『黄金の法 エル・カンターレの歴史観』(2003年)のアニメなどが、東映のビジネスモデルとして引き継がれた。ただし、幸福の科学との繋がりは2009年の幸福実現党による政治進出を危惧して『仏陀再誕 The REBIRTH of BUDDHA』を最後に切れている。 テレビ映画に関しては、大川博時代に引き続き制作を進め、『暴れん坊将軍』『遠山の金さん』などの時代劇、『特別機動捜査隊』『鉄道公安36号』などの現代劇、『さすらい刑事旅情編』に始まる『刑事』シリーズ、初の2時間ドラマとして特筆される『土曜ワイド劇場』、一世を風靡した『ジャイアントロボ』『仮面ライダー』(仮面ライダーシリーズ)、『人造人間キカイダー』『超人バロム・1』などの特撮変身ヒーローもの、『秘密戦隊ゴレンジャー』などのスーパー戦隊シリーズ、『宇宙刑事ギャバン』から始まるメタルヒーローシリーズ、『柔道一直線』『スケバン刑事』などを生み出した。『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在キャラクター商品の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている。1975年テレビ版権営業部を設立し、版権収入の拡大に力を入れる。ビデオ時代の到来に対応する体制作りにも乗り出し1977年8月、東映芸能と東映ビデオを合併させ東映芸能ビデオを設立(のち東映ビデオ)。翌1978年にはビデオ制作強化のため東映ビデオセンターを設立し、この年カラオケビデオを発売した。また一本立て大作主義による下番線の本数不足を補うため1977年12月、ATGの商業映画版ともいうべき、東映セントラルフィルムを設立。日活から黒澤満を東映ビデオの製作部門の長として引きぬき、東映セントラルフィルムと組ませて低予算で映画を制作するセクションが設立され、これが後にセントラルアーツとなる。家庭用ビデオデッキの普及に伴い、1980年前半にはポルノビデオ(アダルトビデオ)が爆発的に売れた。1980年、東急グループの興行会社・東急レクリエーション社長に就任、16年ぶりに東急グループに復縁し、五島慶太・五島昇に対する不義理を解いた「映画の日」の全国普及にも貢献。1984年日本衛星放送(WOWOW)設立で非常勤取締役(〜2001年)。1986年黒木瞳を『化身』で、映画主演デビューさせた。1989年3月期の決算で東映として初めて総売上げ1000億円の大台に乗せる。1990年夏から「東映まんがまつり」を鳥山明に絞った番組編成の「東映アニメフェア」に転換させた。1993年、東映会長。1996年、ルパート・マードックと孫正義によるテレビ朝日買収を阻止した。1997年11月「時代劇コンテンツ推進協議会」を立ち上げる(#時代劇復興)。晩年は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評であった。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である。瀬川昌治は「岡田さんの人生はそのまま東映躍進の歴史につながっているといっても過言ではない」と述べている。日本経済新聞社は岡田を「邦画の礎を築いた男」「戦後の映画史とともに人生を歩んできた男」、サンケイスポーツは「昭和、平成を通じて、人生そのものが映画の歴史に重なる傑物だった」、松岡功は「岡田さんは映画界のドン。今の映画界があるのは岡田さんのおかげです。日本映画の復興に、あれだけ尽力した人はいません。時代が変わったということもありますが、岡田さんのような方はもう出てこないと思います」と評した。 親分肌で豪放な性格で知られ『仁義なき戦い』の広島弁は岡田の社内での罵詈雑言を脚本の笠原和夫が参考にした、という逸話を持つ。また付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った。早稲田大学出身で縁の無い小渕恵三の後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った。また岡田を慕う人達が多く岡田一家、岡田学校と呼ばれたりした。沢島忠は「結婚も監督になれたのも岡田さんのおかげ。面倒見の良い兄貴。偉大な親分。あれほど多くの映画人に慕われた人はいない」、北大路欣也は「人生を生ききり、どんなに素晴らしいかと思う。男として憧れの的でした」、里見浩太朗は「すばらしい指揮官だった。あんな人はもう出てこないんじゃないかな。背が高くて二枚目。ダンディーで俳優や女優のあこがれだった」と話した。 1978年から1995年まで日本映画製作者連盟会長。この他、映画産業団体連合会会長、日本映画テレビ製作者協会理事長、日本映画海外普及協会理事長、テレビ朝日会長、(株)東急レクリエーション代表取締役会長など多くの要職に就く。日本映画製作者連盟会長、映画産業団体連合会会長は通算30年務め、日本映画復興に尽力した。1974年城戸賞創設に関わり、以降1994年まで審査委員長を務める。1978年日本アカデミー賞の創設にも尽力、会長・名誉会長を歴任し、その功績を称えて第30回を迎えた2007年度より同賞では初めて個人名を冠した岡田茂賞が新設された。撮影所所長としても辣腕を振るった岡田の多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性を合わせ持った高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する。1985年、瀬島龍三らと東京国際映画祭を創設。 その他、1982年5月、地方自治体で初めての映画や音楽資料を収集・保存する専門施設・広島市映像文化ライブラリー(広島市立中央図書館併設)の開館にも尽力した。1990年、岡田を主人公にした『映画三国志:小説東映』という小説が、岡田を師匠と挙げる大下英治作で徳間書店から出ている。これを原作として笠原和夫が脚本を担当し、岡田の母親にまで会うなど徹底取材した2時間ドラマが、普段は洋画を放送する日本テレビ系「金曜ロードSHOW!」枠で同年6月1日放送され、中村雅俊が岡田を、妻の役は黒木瞳が演じた。
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