多角経営化と常滑線の改良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:05 UTC 版)
「愛知電気鉄道」の記事における「多角経営化と常滑線の改良」の解説
折からの好景気によって愛電の鉄道路線収入は増加の一途を辿ったが、元来鉄道事業は公益性が高く利潤を追い求める事業ではないことから、愛電においては経営の多角化によって一層の増収を図る経営方針が定められた。折りしも名古屋市内を中心に他社の乗合バス事業が好成績を上げており、また当時大都市近郊では一部の大手私鉄事業者が土地販売・住宅開発や遊園地の運営などを手がけていた。 そのような情勢下で開催された1918年(大正7年)12月の定期株主総会においては、会社定款の営業目的に自動車事業を追加した。さらに翌1919年(大正8年)12月の定期株主総会において、定款に土地住宅開発事業を追加するとともに、常滑線の複線化・有松線の延伸・築港線の建設など鉄道関連事業資金および土地住宅経営資金を調達する目的で、資本金を185万円から500万円に増資することが決議された。増資にあたっては、名古屋電灯が新規発行株のうち20,000株を引き受けて愛電の筆頭株主となり、同社から副支配人の青木義雄が送り込まれ、愛電の常務取締役に就任した。 常滑線は開通以来年々輸送量が増加して線路容量が逼迫し、従来単線であった路線の複線化など設備の改良の必要性に迫られていた。しかし、1919年(大正8年)10月には新舞子付近において列車同士の正面衝突事故が発生し、事故原因が保安設備の不備に起因するものであったことから、保安設備改良を先行することとした。改良工事に際しては、自動閉塞方式による二位色灯式信号機を常滑線全線に導入した。 次いで複線化事業に着手したが、常滑線は建設当初より複線分の用地を確保していたため工事は順調に進み、1920年(大正9年)10月の古見 - 大野町間の複線化完成を皮切りに順次工事が進捗した。複線化工事に際しては軌条を従来の25 - 30 kg軌条から37 kg軌条に交換し、重軌条化を推進した。また複線化工事の進捗と並行して、輸送力増強のため1921年(大正10年)から翌1922年(大正11年)にかけて8両の電車を導入したが、当時の同業他社における郊外路線用電車は2軸ボギー構造が主流となっていたことから、これら8両の電車は愛電初の2軸ボギー車として設計・製造された。 一方、名古屋港東岸の埋立地開発を目的として敷設が計画された築港線は、常滑線の大江駅より分岐して埋立六号地に至る1.9 kmの貨物支線として1920年(大正9年)6月に敷設免許を取得した。愛電は当時空き地であった六号地に豊国セメント(現・三菱マテリアル)を始めとする工場を誘致することに成功し、前愛電社長の福澤桃介が社長を務める名古屋桟橋倉庫より鉄道用地の提供を受けて1923年(大正12年)2月に着工、翌1924年(大正13年)1月に大江 - 西六号(現・東名古屋港)間が開通した。築港線の1924年(大正13年)下半期における貨物輸送量は43,000 tで同期の愛電の全貨物輸送量の約23 %にのぼり、売上高25,000円は鉄道事業収入全体の約17 %を占めた。
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