アテネオリンピックまでとは? わかりやすく解説

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アテネオリンピックまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 11:58 UTC 版)

谷本歩実」の記事における「アテネオリンピックまで」の解説

柔道9歳時に安城柔道教室(安城柔道クラブ)で始めた同時に陸上競技にも取り組んでいて、走幅跳では愛知県大会で優勝したこともある。中学入学したらどちらの道に進もう思案していたところ、父親柔道の方が向いていると言われたことで、中学入学直前には1992年バルセロナオリンピック78kg級金メダリストである吉田秀彦輩出したことで知られる大石道場移籍して、週2回の稽古を積むことになった入学した安城市立篠目中学校には柔道部無かったため陸上部所属していて、砲丸投では安城市大会で優勝したこともあった。ちなみに、50mは6秒5で走った述べているが、女子50mの日本記録が6秒47(室内記録)であることを考えると俄かに信じがたい数字と言える全国中学校柔道大会には1年2年時に56kg級、3年時には52kg級で出場するが、いずれも予選リーグ敗れて決勝トーナメントには進めなかった。 続いて桜丘高校に進むものの、柔道部練習1時間半少なく物足りなさ感じていたために、練習後は自主トレーニング積んでいた。全国高校選手権63kg級では1年時に5位、2年時には準決勝埼玉栄高校早田英美払腰敗れるが3位となった3年時には全日本ジュニア3位となると全国女子体重別では準々決勝筑波大学一見理沙大外刈敗れるも、敗者復活戦勝ち上がりこちらも3位となった2000年3月ハンガリー国際では2位となった4月には筑波大学進学すると、フランスジュニア国際優勝飾った6月学生優勝大会で3位だった。9月全日本ジュニア決勝では早田崩上四方固逆転一本勝ちをして優勝するが、10月ナブール開催され世界ジュニアでは、決勝で後に終生ライバルとなるフランスリュシ・デコスに合技で敗れて銀メダル終わった11月全国女子体重別でも決勝住友海上木本奈美内股敗れて2位とどまった。なお、大学1年時には柔道辞めたい思いつめたこともあったが、大学1年先輩である薪谷翠色々と気にかけてもらったことで立ち直った2001年2月ドイツ国際で3位になると、4月体重別では大学先輩でもあるコマツ一見を有効で破って世界選手権代表に選出された。続いてウランバートル開催されアジア選手権では優勝飾った5月大阪開催され東アジア大会では初戦敗れると、敗者復活戦でも敗れて5位に終わった6月学生優勝大会でチーム優勝貢献した7月ミュンヘン開催され世界選手権では準々決勝スペインサラ・アルバレス技あり敗れるが、その後3位決定戦ではオーストリアクラウディア・ハイル送襟絞絞め落として3位になった10月学生体重別では3位とどまった11月には当時としては珍しい賞金大会であるグランプリ・セビリアに出場すると、初戦日本選手10年上もの勝てなかった元世界チャンピオンである韓国鄭成淑を破ると、準決勝でもデコスに勝利する活躍見せるが、決勝ではスロベニアウルシカ・ジョルニル隅返技あり敗れた12月福岡国際では決勝旭川南高校の上野順恵を指導破って優勝飾った2002年4月体重決勝では三井住友海上の上野に注意敗れながらも、釜山アジア大会代表に選出された。6月学生体重別では決勝東海大学早田腕緘敗れた9月バーゼル開催されワールドカップ国別団体戦では初戦オランダ戦のみの出場となった一本勝ちして、優勝メンバー一員として名を連ねることになった10月釜山開催されアジア大会では、決勝北朝鮮のイ・キョンスンを払腰で破るなどオール一本勝ち優勝飾った。続く学生優勝大会で3位だった。12月福岡国際では決勝上野一本背負投破って2連覇達成した2003年2月ドイツ国際では決勝キューバドリュリス・ゴンサレス内股敗れた4月体重決勝では上野GSの末に1-2判定敗れながらも世界選手権代表に選出された。9月大阪開催され世界選手権では3回戦チェコのダヌセ・ズデンコワに開始僅か7秒の隅返敗れてメダル獲得できずに終わった。なお、大会放映したフジテレビからは「最強キャンパスクイーン」なるキャッチコピー付けられた。この試合後、女子代表監督吉村和郎に「悔しいだろ。このままでお前は終わるつもりか?ここから勝ちにいくか?」と声をかけられことがきっかけで、吉村との強力な信頼関係生じようになったという。11月講道館杯では決勝埼玉大学大学院吉澤穂波を有効で破って優勝果たした12月福岡国際決勝では上野GS入ってからの効果敗れて3連覇はならなかった。 2004年2月フランス国際では3回戦クロアチアのマリヤナ・ミスコビッチに片羽絞敗れたこの際吉村から、「お前、はっきり言わせてもらうけど、次に負けたらお前の柔道人生終わった思えと言われたことが、その後試合への発奮材料となった4月にはコマツ入社すると、体重別の決勝セコム吉澤一本背負投で破るなどオール一本勝ちして、今大会3年ぶり2度目優勝飾った最近国際大会では全般的に不調だったものの、ライバルの上野が準決勝吉澤に有効で敗れたこともあって2004年アテネオリンピック代表に選出されることになった5月アルマトイ開催されアジア選手権ではオール一本勝ち優勝飾った8月アテネオリンピックでは準決勝世界チャンピオンであるアルゼンチンダニエラ・クルコウェルから袖釣込腰技ありを取ると相手が腕を負傷したことで棄権勝ちになると、決勝ではハイル一本背負投技ありから横四方固抑え込んで合技で破るなど、オール一本勝ちオリンピック優勝成し遂げた優勝した際にコーチ古賀稔彦抱きつく姿は、観戦者に深い印象与えた。なお、この大会ではデコスが準々決勝でクルコウェルに効果敗れたために対戦はなかった。

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アテネオリンピックまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/01 08:59 UTC 版)

塚田真希」の記事における「アテネオリンピックまで」の解説

絵を描くことが好きだったこともあり、下妻中学入学する初め美術部入部するつもりだったものの、先輩柔道部誘われことがきっかけで柔道始めることになった。しかし、中学時代県予選3位になった程度であった土浦日大高校に入学する寮生活送りながら本格的な稽古取り組むことになったが、1年時には厳し上下関係や、上級生に「あんたみたいな弱い相手とは練習してあげない」などと暴言浴びせられたことで精神的に参ってしまい、実家に3週間ほど逃げ帰っていたことがあったものの、気持ち持ち直して再び稽古取り組むと、全国高校選手権78kg超級では1年時に3位2年時にはオール一本勝ち優勝するまでになった。さらに、国体少年女子の部では茨城県2年連続優勝導いたまた、3年時にはフランスジュニア国際優勝すると、金鷲旗決勝では埼玉栄高校を3人抜きしてチームに初の優勝もたらした。さらに、全日本ジュニアでも優勝果たした初めてのシニア国際大会となった福岡国際では無差別に出場したものの5位に終わった2000年4月には東海大学入学すると、フランスジュニア国際では2連覇飾った6月学生優勝大会で早くもチーム優勝貢献することとなった。さらに、9月全日本ジュニア2連覇達成すると、10月世界ジュニアでも優勝飾った学生体重別と11月全国女子柔道体重別選手権大会では決勝筑波大学薪谷翠敗れて2位とどまった12月福岡国際では78kg超級で5位だったものの、無差別ではキューバダイマ・ベルトラン注意敗れたものの2位となった。この試合において女子代表監督吉村和郎に、最初は「こら〜、いけ〜」と声をかけられていたが、そのうち、「こら〜、いかんかい、このデブとなると最後には「このくそデブ」と罵倒されて、試合後に大泣きした。 2001年2月オーストリア国際シニア国際大会初優勝飾った4月体重別と全日本女子選手権では大阪府警山下まゆみ判定敗れて3位だった。6月学生優勝大会で3位だった。8月北京開催されユニバーシアードでは決勝地元中国袁華敗れて2位だったものの、10月学生体重別では谷を破って初優勝成し遂げた12月福岡国際では78kg超級初戦敗れると、無差別では5位にとどまった2002年4月体重別では昨年続いて山下判定敗れて3位だったものの、全日本女子選手権決勝では前年チャンピオンである谷に2-1微妙な判定ながら勝利して初優勝果たした6月学生体重別では昨年続いて谷を破って2連覇飾った10月釜山開催されアジア大会無差別では決勝佟文横四方固敗れて2位終わった。続く学生優勝大会で2位だった。12月福岡国際では78kg超級3位になると、無差別では中国の買英に注意敗れて2位だった。 2003年2月ドイツ国際をオール一本勝ち制すと、4月体重決勝でもコマツ徳田美由樹大外刈破って初優勝果たした。続く全日本選手権では決勝帝京大学近藤悦子袈裟固破って2連覇達成して世界選手権代表に選出された。さらに、6月学生優勝大会でチーム優勝もたらした9月大阪開催され世界選手権では準決勝ベルトランを合技で破るなどオール一本勝ち勝ち進むが、決勝中国孫福明背負投敗れた12月福岡国際では78kg超級3位だったものの、無差別ではオール一本勝ちして今大会初優勝飾った2004年2月フランス国際では3位だった。その後大学卒業して綜合警備保障所属となった4月体重別と全日本選手権決勝ではミキハウス谷を効果横四方固立て続け破って2004年アテネオリンピック代表に選出された。8月アテネオリンピックでは準決勝ロシアテア・ドングサシビリを合技で破ると、決勝では最大強敵と見なされていた孫福明準決勝において谷落破ったベルトランとの対戦となり、先に大外刈技あり取られたものの、寝技の展開から逆に後袈裟固抑え込みオール一本勝ちオリンピック優勝を果たすことになった。これにより、日本女子選手世界大会重量級初め制覇することにもなった。

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アテネオリンピックまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 03:38 UTC 版)

阿武教子」の記事における「アテネオリンピックまで」の解説

12月にはオリンピック後最初大会となる福岡国際出場して決勝松崎注意破って優勝飾り新たなスタートをきることになった2001年2月にはドイツ国際に出場するも、3回戦でラケルスに敗れると、さらに敗者復活戦でもドイツジェニー・カール敗れてメダルなしに終わった4月体重別では決勝松崎から大内刈技あり取って優勝果たして、世界選手権代表に選ばれた。7月ミュンヘン開催され世界選手権では、準決勝韓国李昭妍注意で破ると、決勝キューバユリセル・ラボルデ盛んに攻め込んで終了間際注意取って優勢勝ちして、大会3連覇達成した。しかし、12月福岡国際では決勝フランスセリーヌ・ルブラン判定負けして2位終わった2002年4月体重別では、決勝帝京大学1年鳥谷部真弓を合技で破って優勝して山口香田村亮子に続く体重10連覇達成した9月にはバーゼル開催されワールドカップ団体戦出場して決勝でキューバチームのラボルデを隅落一本破り日本チーム団体優勝貢献した11月には全国女子体重別に出場して決勝松崎から大内刈で有効を取って5年ぶりに優勝した。続く福岡国際では決勝韓国趙壽姫判定破り5年ぶりに優勝したさらには、この大会10年ぶりとなる無差別に出場するが、2回戦中国の買英に掬投一本負けするも、その後3位決定戦ドイツのカーチャ・ガーバーから大内刈一本をきめて3位入った2003年2月にはフランス国際に出場して決勝で趙を警告破り優勝した。続く体重別では、決勝松崎から小外掛効果取って優勝して世界選手権代表に選出された。9月大阪開催され世界選手権では、準決勝スペインエステール・サン・ミゲルから大内刈技あり取って下すと、決勝では前回と同じ対戦になったラボルデを積極的に攻め指導3を取って優勢勝ちして大会4連覇達成したまた、この大会から設けられ国別団体戦にも出場して決勝中国戦で尹玉峰勝利するなどチーム優勝貢献した2004年4月体重別では、決勝淑徳大学3年中澤さえから合技で一本勝ちして大会12連覇成し遂げて、今大会11連覇記録を持つ谷を上回ることになったまた、この結果によりアテネオリンピックの代表に選出された。その際記者陣から、過去2回の五輪初戦敗れた事を聞かれると、阿武は「オリンピック2度出て2度初戦敗退もなかなか出来ない経験です」と冗談交じりコメントし記者陣を笑わせていた。

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アテネオリンピックまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/02 08:32 UTC 版)

上野雅恵」の記事における「アテネオリンピックまで」の解説

12月福岡国際では、3回戦シドニーオリンピック金メダリストであるキューバシベリス・ベラネス袖釣込腰一本負けすると、3位決定戦でも天尾判定敗れて5位に終わった2001年2月フランス国際では、決勝でウェルブルックに効果取られ2位終わった4月体重別では、決勝埼玉大学4年古賀幸恵崩上四方固一本勝ちして今大会初優勝を飾るとともに世界選手権代表に選ばれた。続いて2年ぶりに出場した全日本選手権では、3回戦二宮注意で破るが、準決勝で今大会優勝した筑波大学3年谷に合技で敗れて3位となった7月ミュンヘン開催され世界選手権では、準決勝でウェルブルックに足車一本勝ちすると、決勝ではホーウェイから大外刈で有効を取って優勢勝ちして、世界チャンピオンとなった大会前はトレーニングマシーンに柔道衣を着け実際組手同じよう動作をさせて、それを引き付けたりする訓練積んだ結果以前とは筋肉付き方が大きく変わって前腕がさらに太くなったことも優勝貢献した要因だという。また、女子代表監督吉村和郎は後の述懐で、「田村亮子阿武教子のようなスター選手優勝して当たり前だ思われるが、上野のような選手優勝したことで、他の選手あの人勝てるなら自分勝てるかもしれない奮起することになり、そこから日本女子柔道全体として大きく飛躍することになった」と述べている。 11月にはこの当時としては珍しい賞金付き大会であるグランプリ・セビリアに出場するが、スペインのセシリア・ブランコに敗れて3位とどまった12月福岡国際では初戦ドイツアネット・ベーム大外刈一本負けすると、敗者復活戦でもベルギーキャサリン・ジャック技あり敗れて7位に終わった2002年2月フランス国際では、決勝キューバレグラ・レイエン一本勝ちして今大会初優勝飾った4月体重別では、決勝帝京大学3年風戸晴子大内返一本負けして2位に終わるが、アジア大会代表に選ばれた。続く全日本選手権では、準々決勝大阪府警山下まゆみ判定で破るが、準決勝で今大会優勝した東海大学3年塚田真希小外刈敗れて3位となった6月実業柔道団体では、決勝コマツの78kg級の選手である松崎みずほ大外刈一本勝ちして、チーム優勝貢献した9月スイスバーゼル開催されワールドカップ国別団体戦では初戦オランダエディス・ボッシュ体落一本勝ちするが、決勝ではベラネスに技あり取られ敗れたものの、一緒に出場した妹の順恵は準決勝フランス戦リュシ・ドコス一本勝ちするなど活躍してチーム優勝飾った10月釜山開催されアジア大会では、準決勝韓国の裵恩惠指導敗れるが、3位決定戦モンゴルのムハルシャル・エンフツェツェグに大内刈一本勝ちして3位となった11月全国女子体重別では、3回戦筑波大学1年中川愛子に注意敗れてメダル獲得できなかった。12月福岡国際では、準決勝ボッシュ崩上四方固一本負けするが、3位決定戦ではスロベニアラシャ・スラカ崩袈裟固一本勝ちして3位となった2003年2月ドイツ国際では、2回戦ボッシュ指導敗れると、敗者復活戦でもベーム指導取られ敗れメダル獲得できずに終わった4月体重別では決勝貝山注意破り、63kg級で優勝した順恵とともに大会初の姉妹優勝飾った5月実業柔道団体では、前年続いて2連覇飾った9月大阪開催され世界選手権では、初戦今まで分のよくなかったベーム崩上四方固一本勝ちすると、準決勝ではボッシュに合技、決勝ではキューバレイエン大内刈破りオール一本勝ちで今大会2連覇達成したまた、この大会から設けられ国別団体戦にも出場して決勝中国戦で秦東亜勝利するなどチーム優勝貢献した大会直前気持ちが非常に落ち込んで練習最中にも泣いてしまったことがあるが、それによって逆に心がすっきりして練習にも集中して打ち込めて、試合では自分自分ないよう不思議な感覚抱いて自信持って冷静に対応できて全く負ける気がしなかったという。2002年全体的に不調だったこともあり、監督吉村和郎が「今までスランプ何だったんだ」と今大会圧勝ぶりにコメント寄せたが、本人によると2002年は本気で勝とうとする気持ちがなかったという。また、自分としては特にスランプだったとは思っていなかったとも語った10月には国体成年女子の部静岡代表として出場して2位となった12月福岡国際では、決勝淑徳大学3年岡明日香崩袈裟固一本勝ちして、63kg級で優勝した妹の順恵とともに個人戦国際大会で初の姉妹優勝飾った2004年4月体重別では、準決勝東海大学4年山下亜希内股一本負けして3位終わったが、アテネオリンピック代表に選ばれた。5月カザフスタンアルマトイ開催されアジア選手権では、決勝北朝鮮のキム・リョンミから大外刈技あり取って優勝した8月アテネオリンピックでは、初戦スイスのセリタ・シュッツを横四方固3回戦でスラカから大内刈で有効 準々決勝ジャック大内刈準決勝オーストラリアのキャサリン・アーラブを大外刈それぞれ破ると、決勝ではボッシュ先に指導取られるが、3分過ぎに袖釣込腰一本勝ちして優勝果たしたボッシュとは何度も対戦しているが、組み手争いばかりしてくる反則狙いポイント柔道で、おまけに自分の頭を叩いてきたりするので絶対許せない絶対勝たないといけない相手だったという。また、試合後の会見一本を取るのが柔道魅力ボッシュ語った時は、それと相反するような柔道をやってきているのにと驚き隠せなかった。

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アテネオリンピックまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 06:27 UTC 版)

谷亮子」の記事における「アテネオリンピックまで」の解説

12月福岡国際では、決勝濱野警告破り大会11連覇達成した2001年4月体重別では、決勝濱野総合勝ちして大会11連覇達成するとともに世界選手権代表に選ばれた。 7月ミュンヘン開催され世界選手権では、2週間前に右膝の内側側副靱帯断裂しながら敢えて参戦した。その準決勝ではイタリアジュゼッピーナ・マクリ内股一本で破ると、決勝では北朝鮮リ・キョンオク際どい試合になったものの2-1判定下してケガ抱えながらも大会5連覇達成した。なお、12月福岡国際12連覇が懸かっていたものの、出場しなかった。 2002年4月体重別では、初戦土浦日大高2年福見友子大内刈効果取られ敗れアトランタオリンピック決勝敗れてから続いていた連勝記録65ストップしたまた、日本選手には1990年体重準決勝江崎敗れて以来12年ぶりに敗れ、これによって対日本選手連勝98国内開催され大会で連勝記録121ストップすることとなった。後にこの敗戦について、次のようにコメントした。「あの試合4月)を振り返ってみると、柔道以外のこと、それは肖像権問題ですが、それに頭が行ってしまい、あの時点で誰と対戦したとしても、いい結果得られなかったと思います。ですから、敗戦というより自分問題であって、あまり気にはしていないんです。」「あの敗戦よりももっと苦しくてひどい敗戦を、バルセロナアトランタ経験してます。だから、あの敗戦そういうものとは違います」。 12月には2年ぶりに福岡国際出場すると、準決勝では体重別で敗れた福見から効果取って勝ち雪辱を果たすと、決勝でもミキハウス北田佳世から小内巻込で有効を取り、この大会12度目の優勝飾った。なお、福岡国際出場したのは結果として今回最後となった田村が今大会で初優勝した時から常に実況続けてきたRKB毎日放送アナウンサー隈部崇之は、田村動きが速すぎるので一瞬たりとも目が離せず、他の選手実況している場合違い選手の経歴エピソード書かれメモを見る余裕さえ与えなかったと語っている。 2003年4月体重別では準決勝福見小外刈一本勝ちすると、決勝でも北田から背負投で有効を取って優勝果たして、世界選手権代表に選ばれた。 9月大阪開催され世界選手権では準々決勝までの3試合一本勝ち準決勝でも中国高峰から効果指導取って攻め続けラスト1秒の背負投一本勝ちすると、決勝ではジョシネ指導3で優勢勝ちして大会6連覇達成した12月1日にはプロ野球オリックス・ブルーウェーブ所属選手である谷佳知結婚した20日には結婚披露宴行い日本テレビ生中継された。 2004年4月体重別では、準決勝藤村女子高3年山岸絵美払腰一本で破ると、決勝でも北田から指導2を取って優勝果たしアテネオリンピック代表に選出された。 新たに谷亮子」として臨んだ8月アテネオリンピックでは、夫で同じくアテネオリンピック野球競技日本代表選手である谷佳知をはじめ多く人々による応援の中、試合臨んだ大会1か月前に左足首を傷めたことからケガ影響懸念された。しかしながら初戦地元ギリシャのマリア・カラヤノブルーを合技、準々決勝アルジェリアソラヤ・ハダド大外刈準決勝ルーマニアアリナ・ドゥミトルを合技で破るなどオール一本勝ち決勝まで進んだ決勝ではジョシネ対戦すると、開始早々に大外刈効果、その直後には背負投で有効を奪った。さらに終了17前に大内刈技あり取って快勝して、オリンピック2大会連続金メダル獲得した女子競技における日本選手オリンピック連覇初めてのことであった試合後のインタビューでは「シドニーの時よりも何倍も嬉しいです」と涙を流して喜んだ。なお、今回勝利日本女子既婚選手では初めての金メダル獲得となったまた、夫の谷佳知野球競技銅メダル獲得したことで、夫婦揃ってメダリストともなったまた、マスコミから「谷でも金」と賞賛された。

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アテネオリンピック(2004年)まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 03:09 UTC 版)

室伏広治」の記事における「アテネオリンピック(2004年)まで」の解説

2001年7月14日中京大土曜記録会では世界歴代7位(当時)となる83m47を記録8月5日世界陸上エドモントン大会では82m92を投げて2位になり、銀メダル獲得投擲種目でのメダル獲得世界陸上五輪通じて日本人であった9月7日ブリスベン行われたグッドウィルゲームズでは82m92で優勝2002年5月11日のドーハグランプリでこの年シーズンベストとなる83m33を記録9月14日IAAFグランプリファイナルでは81m14で優勝20日IAAFワールドカップでは80m03で2位10月8日釜山アジア大会では78m72で優勝し大会2連覇達成2003年5月10日大阪国グランプリでは82m95で優勝、6投すべての試技81m超えた6月8日第87回日本選手権では83m29の大会新記録で9連覇達成6月29日プラハ国際世界歴代3位当時)となる84m86を記録過去15年における世界最高記録であったちなみに当時歴代1位2位組織的ドーピングが盛んであったとされる1986年ソ連での記録である。8月25日世界陸上パリ大会では出発3日前の練習中にサークル内で滑って転倒し、右肘を強打。手の指に力が入らない状態で、一時欠場考えたコンディションながら80m12を投げて3位になり、銅メダル獲得2004年6月6日第88回日本選手権では82m09を投げて父・重信と並ぶ10連覇達成8月22日行われたアテネオリンピック大会中は82m91の記録残し2位となったが、83m19の記録で1位となっていたハンガリーアドリアン・アヌシュドーピング疑惑浮上アヌシュIOC求めていた再検査の為の尿検体提出拒否、更に競技前後それぞれに提出した2つ尿検体同一人物でないことが判明アテネオリンピック最終日8月29日ドーピング違反失格処分となり、室伏優勝者となった9月スーパー陸上ではシーズンベストとなる83m15を投げて優勝。同競技会終了後金メダル授与式が行われ、5万人近観衆からの祝福受けた陸上投擲種目における金メダル獲得オリンピック世界選手権通じてアジア人史上初】の快挙この年出場した7試合すべてで優勝している。

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