アテネオリンピックまで
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柔道は9歳の時に安城柔道教室(安城柔道クラブ)で始めた。同時に陸上競技にも取り組んでいて、走幅跳では愛知県の大会で優勝したこともある。中学に入学したらどちらの道に進もうか思案していたところ、父親に柔道の方が向いていると言われたことで、中学入学直前には1992年バルセロナオリンピック78kg級金メダリストである吉田秀彦を輩出したことで知られる大石道場に移籍して、週2回の稽古を積むことになった。入学した安城市立篠目中学校には柔道部が無かったため陸上部に所属していて、砲丸投では安城市の大会で優勝したこともあった。ちなみに、50mは6秒5で走ったと述べているが、女子50mの日本記録が6秒47(室内記録)であることを考えると俄かには信じがたい数字と言える。全国中学校柔道大会には1年と2年の時に56kg級、3年の時には52kg級で出場するが、いずれも予選リーグで敗れて決勝トーナメントには進めなかった。 続いて桜丘高校に進むものの、柔道部の練習は1時間半と少なく物足りなさを感じていたために、練習後は自主トレーニングを積んでいた。全国高校選手権63kg級では1年の時に5位、2年の時には準決勝で埼玉栄高校の早田英美に払腰で敗れるが3位となった。3年の時には全日本ジュニアで3位となると、全国女子体重別では準々決勝で筑波大学の一見理沙に大外刈で敗れるも、敗者復活戦を勝ち上がりこちらも3位となった。 2000年3月のハンガリー国際では2位となった。4月には筑波大学に進学すると、フランスジュニア国際で優勝を飾った。6月の学生優勝大会では3位だった。9月の全日本ジュニア決勝では早田に崩上四方固で逆転の一本勝ちをして優勝するが、10月にナブールで開催された世界ジュニアでは、決勝で後に終生のライバルとなるフランスのリュシ・デコスに合技で敗れて銀メダルに終わった。11月の全国女子体重別でも決勝で住友海上の木本奈美に内股で敗れて2位にとどまった。なお、大学1年の時には柔道を辞めたいと思いつめたこともあったが、大学の1年先輩である薪谷翠に色々と気にかけてもらったことで立ち直った。 2001年2月のドイツ国際で3位になると、4月の体重別では大学の先輩でもあるコマツの一見を有効で破って世界選手権代表に選出された。続いてウランバートルで開催されたアジア選手権では優勝を飾った。5月に大阪で開催された東アジア大会では初戦で敗れると、敗者復活戦でも敗れて5位に終わった。6月の学生優勝大会ではチームの優勝に貢献した。7月にミュンヘンで開催された世界選手権では準々決勝でスペインのサラ・アルバレスに技ありで敗れるが、その後の3位決定戦ではオーストリアの クラウディア・ハイルを送襟絞で絞め落として3位になった。10月の学生体重別では3位にとどまった。11月には当時としては珍しい賞金大会であるグランプリ・セビリアに出場すると、初戦で日本選手が10年以上もの間勝てなかった元世界チャンピオンである韓国の鄭成淑を破ると、準決勝でもデコスに勝利する活躍を見せるが、決勝ではスロベニアのウルシカ・ジョルニルに隅返の技ありで敗れた。12月の福岡国際では決勝で旭川南高校の上野順恵を指導で破って優勝を飾った。 2002年4月の体重別決勝では三井住友海上の上野に注意で敗れながらも、釜山アジア大会代表に選出された。6月の学生体重別では決勝で東海大学の早田に腕緘で敗れた。9月にバーゼルで開催されたワールドカップ国別団体戦では初戦のオランダ戦のみの出場となったが一本勝ちして、優勝メンバーの一員として名を連ねることになった。10月に釜山で開催されたアジア大会では、決勝で北朝鮮のイ・キョンスンを払腰で破るなどオール一本勝ちで優勝を飾った。続く学生優勝大会では3位だった。12月の福岡国際では決勝で上野を一本背負投で破って2連覇を達成した。 2003年2月のドイツ国際では決勝でキューバのドリュリス・ゴンサレスに内股で敗れた。4月の体重別決勝では上野にGSの末に1-2の判定で敗れながらも世界選手権代表に選出された。9月に大阪で開催された世界選手権では3回戦でチェコのダヌセ・ズデンコワに開始僅か7秒の隅返で敗れてメダルを獲得できずに終わった。なお、大会を放映したフジテレビからは「最強のキャンパスクイーン」なるキャッチコピーが付けられた。この試合後、女子代表監督の吉村和郎に「悔しいだろ。このままでお前は終わるつもりか?ここから勝ちにいくか?」と声をかけられたことがきっかけで、吉村との強力な信頼関係が生じるようになったという。11月の講道館杯では決勝で埼玉大学大学院の吉澤穂波を有効で破って優勝を果たした。12月の福岡国際決勝では上野にGSに入ってからの効果で敗れて3連覇はならなかった。 2004年2月のフランス国際では3回戦でクロアチアのマリヤナ・ミスコビッチに片羽絞で敗れた。この際に吉村から、「お前、はっきり言わせてもらうけど、次に負けたらお前の柔道人生は終わったと思え」と言われたことが、その後の試合への発奮材料となった。4月にはコマツに入社すると、体重別の決勝でセコムの吉澤を一本背負投で破るなどオール一本勝ちして、今大会3年ぶり2度目の優勝を飾った。最近の国際大会では全般的に不調だったものの、ライバルの上野が準決勝で吉澤に有効で敗れたこともあって2004年アテネオリンピック代表に選出されることになった。5月にアルマトイで開催されたアジア選手権ではオール一本勝ちで優勝を飾った。8月のアテネオリンピックでは準決勝で世界チャンピオンであるアルゼンチンのダニエラ・クルコウェルから袖釣込腰で技ありを取ると相手が腕を負傷したことで棄権勝ちになると、決勝ではハイルを一本背負投の技ありから横四方固に抑え込んで合技で破るなど、オール一本勝ちでオリンピック優勝を成し遂げた。優勝した際にコーチの古賀稔彦に抱きつく姿は、観戦者に深い印象を与えた。なお、この大会ではデコスが準々決勝でクルコウェルに効果で敗れたために対戦はなかった。
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アテネオリンピックまで
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絵を描くことが好きだったこともあり、下妻中学に入学すると初めは美術部に入部するつもりだったものの、先輩に柔道部に誘われたことがきっかけで柔道を始めることになった。しかし、中学時代は県予選の3位になった程度であった。 土浦日大高校に入学すると寮生活を送りながら本格的な稽古に取り組むことになったが、1年の時には厳しい上下関係や、上級生に「あんたみたいな弱い相手とは練習してあげない」などと暴言を浴びせられたことで精神的に参ってしまい、実家に3週間ほど逃げ帰っていたことがあったものの、気持ちを持ち直して再び稽古に取り組むと、全国高校選手権78kg超級では1年の時に3位、2年の時にはオール一本勝ちで優勝するまでになった。さらに、国体少年女子の部では茨城県を2年連続優勝に導いた。また、3年の時にはフランスジュニア国際で優勝すると、金鷲旗の決勝では埼玉栄高校を3人抜きしてチームに初の優勝をもたらした。さらに、全日本ジュニアでも優勝を果たした。初めてのシニアの国際大会となった福岡国際では無差別に出場したものの5位に終わった。 2000年4月には東海大学に入学すると、フランスジュニア国際では2連覇を飾った。6月の学生優勝大会では早くもチームの優勝に貢献することとなった。さらに、9月の全日本ジュニアで2連覇を達成すると、10月の世界ジュニアでも優勝を飾った。学生体重別と11月の全国女子柔道体重別選手権大会では決勝で筑波大学の薪谷翠に敗れて2位にとどまった。12月の福岡国際では78kg超級で5位だったものの、無差別ではキューバのダイマ・ベルトランに注意で敗れたものの2位となった。この試合において女子代表監督の吉村和郎に、最初は「こら〜、いけ〜」と声をかけられていたが、そのうち、「こら〜、いかんかい、このデブ」となると、最後には「このくそデブ」と罵倒されて、試合後に大泣きした。 2001年2月のオーストリア国際でシニアの国際大会初優勝を飾った。4月の体重別と全日本女子選手権では大阪府警の山下まゆみに判定で敗れて3位だった。6月の学生優勝大会では3位だった。8月に北京で開催されたユニバーシアードでは決勝で地元中国の袁華に敗れて2位だったものの、10月の学生体重別では薪谷を破って初優勝を成し遂げた。12月の福岡国際では78kg超級の初戦で敗れると、無差別では5位にとどまった。 2002年4月の体重別では昨年に続いて山下に判定で敗れて3位だったものの、全日本女子選手権の決勝では前年のチャンピオンである薪谷に2-1の微妙な判定ながら勝利して初優勝を果たした。6月の学生体重別では昨年に続いて薪谷を破って2連覇を飾った。10月に釜山で開催されたアジア大会無差別では決勝で佟文に横四方固で敗れて2位に終わった。続く学生優勝大会では2位だった。12月の福岡国際では78kg超級で3位になると、無差別では中国の買雪英に注意で敗れて2位だった。 2003年2月のドイツ国際をオール一本勝ちで制すと、4月の体重別決勝でもコマツの徳田美由樹を大外刈で破って初優勝を果たした。続く全日本選手権では決勝で帝京大学の近藤悦子を袈裟固で破って2連覇を達成して世界選手権代表に選出された。さらに、6月の学生優勝大会でもチームに優勝をもたらした。9月に大阪で開催された世界選手権では準決勝でベルトランを合技で破るなどオール一本勝ちで勝ち進むが、決勝で中国の孫福明に背負投で敗れた。12月の福岡国際では78kg超級で3位だったものの、無差別ではオール一本勝ちして今大会初優勝を飾った。 2004年2月のフランス国際では3位だった。その後大学を卒業して綜合警備保障所属となった。4月の体重別と全日本選手権の決勝ではミキハウスの薪谷を効果と横四方固で立て続けに破って、2004年アテネオリンピック代表に選出された。8月のアテネオリンピックでは準決勝でロシアのテア・ドングサシビリを合技で破ると、決勝では最大の強敵と見なされていた孫福明を準決勝において谷落で破ったベルトランとの対戦となり、先に大外刈で技ありを取られたものの、寝技の展開から逆に後袈裟固で抑え込み、オール一本勝ちでオリンピック優勝を果たすことになった。これにより、日本の女子選手が世界大会の重量級を初めて制覇することにもなった。
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アテネオリンピックまで
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12月にはオリンピック後最初の大会となる福岡国際に出場して、決勝で松崎を注意で破って優勝を飾り、新たなスタートをきることになった。 2001年の2月にはドイツ国際に出場するも、3回戦でラケルスに敗れると、さらに敗者復活戦でもドイツのジェニー・カールに敗れてメダルなしに終わった。4月の体重別では決勝で松崎から大内刈で技ありを取って優勝を果たして、世界選手権代表に選ばれた。7月にミュンヘンで開催された世界選手権では、準決勝で韓国の李昭妍を注意で破ると、決勝でキューバのユリセル・ラボルデを盛んに攻め込んで終了間際注意を取って優勢勝ちして、大会3連覇を達成した。しかし、12月の福岡国際では決勝でフランスのセリーヌ・ルブランに判定負けして2位に終わった。 2002年4月の体重別では、決勝で帝京大学1年の鳥谷部真弓を合技で破って優勝して、山口香、田村亮子に続く体重別10連覇を達成した。9月にはバーゼルで開催されたワールドカップ団体戦に出場して、決勝でキューバチームのラボルデを隅落一本で破り、日本チームの団体優勝に貢献した。11月には全国女子体重別に出場して、決勝で松崎から大内刈で有効を取って5年ぶりに優勝した。続く福岡国際では決勝で韓国の趙壽姫を判定で破り5年ぶりに優勝した。さらには、この大会10年ぶりとなる無差別にも出場するが、2回戦で中国の買雪英に掬投で一本負けするも、その後3位決定戦でドイツのカーチャ・ガーバーから大内刈で一本をきめて3位に入った。 2003年の2月にはフランス国際に出場して、決勝で趙を警告で破り優勝した。続く体重別では、決勝で松崎から小外掛で効果を取って優勝して世界選手権代表に選出された。9月に大阪で開催された世界選手権では、準決勝でスペインのエステール・サン・ミゲルから大内刈で技ありを取って下すと、決勝では前回と同じ対戦になったラボルデを積極的に攻め、指導3を取って優勢勝ちして大会4連覇を達成した。また、この大会から設けられた国別団体戦にも出場して、決勝の中国戦で尹玉峰に勝利するなどチームの優勝に貢献した。 2004年4月の体重別では、決勝で淑徳大学3年の中澤さえから合技で一本勝ちして大会12連覇を成し遂げて、今大会11連覇の記録を持つ谷を上回ることになった。また、この結果によりアテネオリンピックの代表に選出された。その際に記者陣から、過去2回の五輪で初戦で敗れた事を聞かれると、阿武は「オリンピックに2度出て2度共初戦敗退もなかなか出来ない経験です」と冗談交じりにコメントし、記者陣を笑わせていた。
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アテネオリンピックまで
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12月の福岡国際では、3回戦でシドニーオリンピック金メダリストであるキューバのシベリス・ベラネスに袖釣込腰で一本負けすると、3位決定戦でも天尾に判定で敗れて5位に終わった。 2001年2月のフランス国際では、決勝でウェルブルックに効果を取られて2位に終わった。4月の体重別では、決勝で埼玉大学4年の古賀幸恵に崩上四方固で一本勝ちして今大会初優勝を飾るとともに、世界選手権代表に選ばれた。続いて2年ぶりに出場した全日本選手権では、3回戦で二宮を注意で破るが、準決勝で今大会優勝した筑波大学3年の薪谷に合技で敗れて3位となった。7月にミュンヘンで開催された世界選手権では、準決勝でウェルブルックに足車で一本勝ちすると、決勝ではホーウェイから大外刈で有効を取って優勢勝ちして、世界チャンピオンとなった。大会前はトレーニングマシーンに柔道衣を着けて実際の組手と同じような動作をさせて、それを引き付けたりする訓練を積んだ結果、以前とは筋肉の付き方が大きく変わって、前腕がさらに太くなったことも優勝に貢献した要因だという。また、女子代表監督の吉村和郎は後の述懐で、「田村亮子や阿武教子のようなスター選手が優勝しても当たり前だと思われるが、上野のような選手が優勝したことで、他の選手もあの人が勝てるなら自分も勝てるかもしれないと奮起することになり、そこから日本女子柔道は全体として大きく飛躍することになった」と述べている。 11月にはこの当時としては珍しい賞金付き大会であるグランプリ・セビリアに出場するが、スペインのセシリア・ブランコに敗れて3位にとどまった。12月の福岡国際では初戦でドイツのアネット・ベームに大外刈で一本負けすると、敗者復活戦でもベルギーのキャサリン・ジャックに技ありで敗れて7位に終わった。 2002年2月のフランス国際では、決勝でキューバのレグラ・レイエンに一本勝ちして今大会初優勝を飾った。4月の体重別では、決勝で帝京大学3年の風戸晴子に大内返で一本負けして2位に終わるが、アジア大会代表に選ばれた。続く全日本選手権では、準々決勝で大阪府警の山下まゆみを判定で破るが、準決勝で今大会優勝した東海大学3年の塚田真希に小外刈で敗れて3位となった。6月の実業柔道団体では、決勝でコマツの78kg級の選手である松崎みずほに大外刈で一本勝ちして、チームの優勝に貢献した。9月にスイスのバーゼルで開催されたワールドカップ国別団体戦では初戦でオランダのエディス・ボッシュに体落で一本勝ちするが、決勝ではベラネスに技ありを取られて敗れたものの、一緒に出場した妹の順恵は準決勝のフランス戦でリュシ・ドコスに一本勝ちするなど活躍して、チームは優勝を飾った。10月に釜山で開催されたアジア大会では、準決勝で韓国の裵恩惠に指導で敗れるが、3位決定戦でモンゴルのムハルシャル・エンフツェツェグに大内刈で一本勝ちして3位となった。11月の全国女子体重別では、3回戦で筑波大学1年の中川愛子に注意で敗れてメダルを獲得できなかった。12月の福岡国際では、準決勝でボッシュに崩上四方固で一本負けするが、3位決定戦ではスロベニアのラシャ・スラカに崩袈裟固で一本勝ちして3位となった。 2003年2月のドイツ国際では、2回戦でボッシュに指導で敗れると、敗者復活戦でもベームに指導を取られて敗れ、メダルを獲得できずに終わった。4月の体重別では決勝で貝山を注意で破り、63kg級で優勝した順恵とともに今大会初の姉妹優勝を飾った。5月の実業柔道団体では、前年に続いて2連覇を飾った。9月に大阪で開催された世界選手権では、初戦で今まで分のよくなかったベームに崩上四方固で一本勝ちすると、準決勝ではボッシュに合技、決勝ではキューバのレイエンを大内刈で破り、オール一本勝ちで今大会2連覇を達成した。また、この大会から設けられた国別団体戦にも出場して、決勝の中国戦で秦東亜に勝利するなどチームの優勝に貢献した。大会直前は気持ちが非常に落ち込んで練習の最中にも泣いてしまったことがあるが、それによって逆に心がすっきりして練習にも集中して打ち込めて、試合では自分が自分でないような不思議な感覚を抱いて、自信を持って冷静に対応できて全く負ける気がしなかったという。2002年は全体的に不調だったこともあり、監督の吉村和郎が「今までのスランプは何だったんだ」と今大会の圧勝ぶりにコメントを寄せたが、本人によると2002年は本気で勝とうとする気持ちがなかったという。また、自分としては特にスランプだったとは思っていなかったとも語った。10月には国体成年女子の部に静岡代表として出場して2位となった。12月の福岡国際では、決勝で淑徳大学3年の岡明日香に崩袈裟固で一本勝ちして、63kg級で優勝した妹の順恵とともに個人戦の国際大会で初の姉妹優勝を飾った。 2004年4月の体重別では、準決勝で東海大学4年の山下亜希に内股で一本負けして3位に終わったが、アテネオリンピック代表に選ばれた。5月にカザフスタンのアルマトイで開催されたアジア選手権では、決勝で北朝鮮のキム・リョンミから大外刈で技ありを取って優勝した。8月のアテネオリンピックでは、初戦でスイスのセリタ・シュッツを横四方固、3回戦でスラカから大内刈で有効 準々決勝でジャックを大内刈、準決勝でオーストラリアのキャサリン・アーラブを大外刈でそれぞれ破ると、決勝ではボッシュに先に指導を取られるが、3分過ぎに袖釣込腰で一本勝ちして優勝を果たした。ボッシュとは何度も対戦しているが、組み手争いばかりしてくる反則狙いのポイント柔道で、おまけに自分の頭を叩いてきたりするので絶対許せない、絶対勝たないといけない相手だったという。また、試合後の会見で一本を取るのが柔道の魅力とボッシュが語った時は、それと相反するような柔道をやってきているのにと驚きを隠せなかった。
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アテネオリンピックまで
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12月の福岡国際では、決勝で濱野を警告で破り大会11連覇を達成した。 2001年4月の体重別では、決勝で濱野に総合勝ちして大会11連覇を達成するとともに世界選手権代表に選ばれた。 7月にミュンヘンで開催された世界選手権では、2週間前に右膝の内側側副靱帯を断裂しながらも敢えて参戦した。その準決勝ではイタリアのジュゼッピーナ・マクリを内股一本で破ると、決勝では北朝鮮のリ・キョンオクと際どい試合になったものの2-1の判定で下して、ケガを抱えながらも大会5連覇を達成した。なお、12月の福岡国際は12連覇が懸かっていたものの、出場しなかった。 2002年4月の体重別では、初戦で土浦日大高校2年の福見友子に大内刈で効果を取られて敗れ、アトランタオリンピック決勝で敗れてから続いていた連勝記録が65でストップした。また、日本選手には1990年の体重別準決勝で江崎に敗れて以来12年ぶりに敗れ、これによって対日本選手の連勝は98、国内で開催された大会での連勝記録は121でストップすることとなった。後にこの敗戦について、次のようにコメントした。「あの試合(4月)を振り返ってみると、柔道以外のこと、それは肖像権の問題ですが、それに頭が行ってしまい、あの時点で誰と対戦したとしても、いい結果は得られなかったと思います。ですから、敗戦というより自分の問題であって、あまり気にはしていないんです。」「あの敗戦よりももっと苦しくてひどい敗戦を、バルセロナ、アトランタで経験しています。だから、あの敗戦はそういうものとは違います」。 12月には2年ぶりに福岡国際に出場すると、準決勝では体重別で敗れた福見から効果を取って勝ち雪辱を果たすと、決勝でもミキハウスの北田佳世から小内巻込で有効を取り、この大会12度目の優勝を飾った。なお、福岡国際に出場したのは結果として今回が最後となった。田村が今大会で初優勝した時から常に実況を続けてきたRKB毎日放送アナウンサーの隈部崇之は、田村は動きが速すぎるので一瞬たりとも目が離せず、他の選手を実況している場合と違い、選手の経歴やエピソードが書かれたメモを見る余裕さえ与えなかったと語っている。 2003年4月の体重別では準決勝で福見に小外刈で一本勝ちすると、決勝でも北田から背負投で有効を取って優勝を果たして、世界選手権代表に選ばれた。 9月に大阪で開催された世界選手権では準々決勝までの3試合を一本勝ち、準決勝でも中国の高峰から効果と指導を取っても攻め続け、ラスト1秒の背負投で一本勝ちすると、決勝ではジョシネに指導3で優勢勝ちして大会6連覇を達成した。 12月1日にはプロ野球のオリックス・ブルーウェーブ所属の選手である谷佳知と結婚した。20日には結婚披露宴を行い、日本テレビで生中継された。 2004年4月の体重別では、準決勝で藤村女子高校3年の山岸絵美を払腰一本で破ると、決勝でも北田から指導2を取って優勝を果たしてアテネオリンピック代表に選出された。 新たに「谷亮子」として臨んだ8月のアテネオリンピックでは、夫で同じくアテネオリンピックの野球競技日本代表選手である谷佳知をはじめ多くの人々による応援の中、試合に臨んだ。大会1か月前に左足首を傷めたことからケガの影響が懸念された。しかしながら、初戦で地元ギリシャのマリア・カラヤノブルーを合技、準々決勝でアルジェリアのソラヤ・ハダドを大外刈、準決勝でルーマニアのアリナ・ドゥミトルを合技で破るなどオール一本勝ちで決勝まで進んだ。決勝ではジョシネと対戦すると、開始早々に大外刈で効果、その直後には背負投で有効を奪った。さらに終了17秒前には大内刈で技ありを取って快勝して、オリンピック2大会連続の金メダルを獲得した。女子競技における日本選手のオリンピック連覇は初めてのことであった。試合後のインタビューでは「シドニーの時よりも何倍も嬉しいです」と涙を流して喜んだ。なお、今回の勝利で日本の女子の既婚選手では初めての金メダル獲得となった。また、夫の谷佳知も野球競技で銅メダルを獲得したことで、夫婦揃ってのメダリストともなった。また、マスコミから「谷でも金」と賞賛された。
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アテネオリンピック(2004年)まで
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「室伏広治」の記事における「アテネオリンピック(2004年)まで」の解説
2001年7月14日の中京大土曜記録会では世界歴代7位(当時)となる83m47を記録。8月5日の世界陸上エドモントン大会では82m92を投げて2位になり、銀メダルを獲得。投擲種目でのメダル獲得は世界陸上・五輪を通じて日本人初であった。9月7日にブリスベンで行われたグッドウィルゲームズでは82m92で優勝。 2002年5月11日のドーハグランプリでこの年のシーズンベストとなる83m33を記録。9月14日のIAAFグランプリファイナルでは81m14で優勝、20日のIAAFワールドカップでは80m03で2位。10月8日の釜山アジア大会では78m72で優勝し大会2連覇を達成。 2003年5月10日の大阪国際グランプリでは82m95で優勝、6投すべての試技で81mを超えた。6月8日の第87回日本選手権では83m29の大会新記録で9連覇を達成。6月29日のプラハ国際で世界歴代3位(当時)となる84m86を記録、過去15年における世界最高記録であった。ちなみに当時の歴代1位と2位は組織的ドーピングが盛んであったとされる1986年のソ連での記録である。8月25日の世界陸上パリ大会では出発3日前の練習中にサークル内で滑って転倒し、右肘を強打。手の指に力が入らない状態で、一時は欠場を考えたコンディションながら80m12を投げて3位になり、銅メダルを獲得。 2004年6月6日の第88回日本選手権では82m09を投げて父・重信と並ぶ10連覇を達成。8月22日に行われたアテネオリンピック の大会中は82m91の記録を残し2位となったが、83m19の記録で1位となっていたハンガリーのアドリアン・アヌシュにドーピング疑惑が浮上。アヌシュはIOCが求めていた再検査の為の尿検体提出を拒否、更に競技前後それぞれに提出した2つの尿検体が同一人物でないことが判明。アテネオリンピック最終日の8月29日にドーピング違反で失格処分となり、室伏が優勝者となった。9月のスーパー陸上ではシーズンベストとなる83m15を投げて優勝。同競技会終了後に金メダル授与式が行われ、5万人近い観衆からの祝福を受けた。陸上・投擲種目における金メダル獲得はオリンピック、世界選手権を通じて【アジア人史上初】の快挙。この年は出場した7試合すべてで優勝している。
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