石原裕次郎 石原裕次郎の概要

石原裕次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 00:26 UTC 版)

いしはら ゆうじろう
石原 裕次郎
キネマ旬報』1959年5月下旬号より
生年月日 (1934-12-28) 1934年12月28日
没年月日 (1987-07-17) 1987年7月17日(52歳没)
出生地 日本兵庫県神戸市須磨区
死没地 日本東京都新宿区信濃町慶應義塾大学病院[1]
民族 日本人
身長 178 cm
血液型 A型
職業 俳優歌手司会者モデル実業家ヨットマンマルチタレント
活動期間 1956年 - 1987年
活動内容 1956年:『太陽の季節』でデビュー。
配偶者 石原まき子(北原三枝)
著名な家族 父:石原潔
母:石原光子
兄:石原慎太郎
甥:石原伸晃石原良純石原宏高石原延啓
主な作品

映画
太陽の季節
狂った果実
嵐を呼ぶ男
銀座の恋の物語』< 石原裕次郎さんの 歌謡曲を流して欲しい />

テレビドラマ
太陽にほえろ!
大都会』シリーズ
西部警察』シリーズ
 
受賞
ブルーリボン賞
その他の賞
毎日映画コンクール
特別賞
1987年
石原裕次郎賞(追悼創設)
映画の殿堂1990年
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石原プロモーション創立者で、初代代表取締役社長兼会長。ヨットマンとしても活動していた。昭和を代表する俳優・タレントとされている。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になった。2014年に発表された『キネマ旬報』の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優の14位となっている。

生涯

生い立ち

1934年(昭和9年)12月28日金曜日)に父石原潔(山下汽船社員、愛媛県出身)、母光子(広島県宮島の出身)[2][3]のもと、兵庫県神戸市須磨区で誕生。北海道小樽市および神奈川県逗子市で育つ。

小樽のマリア幼稚園(現在の小樽藤幼稚園)卒園、小樽の稲穂国民学校時代に、競泳や(天狗山 で)スキーに親しむ。逗子中学校時代からはバスケットボールに熱中し、五輪出場を目指していたこともあったが[4]、高校2年生の時にケガをして、その夢を諦めた[4]慶應義塾高等学校の受験に失敗し、慶應義塾農業高等学校に進学したが、1951年に慶應義塾高校に編入学。卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に内部進学するが、正に『太陽の季節』そのものという様な放蕩生活に明け暮れていた[4]

映画デビュー、映画スター、歌手活動

1957年

大学在学中から俳優を目指し、東宝大映日活オーディションを受けるも全て不合格であった。デビューについて複数の説があるが[4]、1956年に、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の時に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、同映画作品の端役で映画デビューした[5]

日活入社前には兄慎太郎が強く推薦したことにより大映映画の『処刑の部屋』に主演し、大映入りする可能性があったが、慎太郎が断りを入れ[6]、日活と契約した。1956年、『太陽の季節』に続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『狂った果実』では主演、この時歌手デビューを果たした[4]。(具体的な出演作品については、#映画を参照のこと。歌手としての活動については石原裕次郎の作品石原裕次郎のシングル一覧石原裕次郎のアルバム一覧を参照のこと)。同年、芦川いづみと共演した『乳母車』での好演で評価を高め[4]、製作者協会新人賞を受賞を与えられたが、この年で大学を中退した[4]

1957年、映画『俺は待ってるぜ』、『嵐を呼ぶ男』など軒並みヒットし、この頃人気は絶頂を迎えた[4]。またブルーリボン賞新人賞受賞も受賞した[4]

1960年1月、交際が噂されていた北原三枝とアメリカ婚前旅行、4月には婚約を発表[4]、結婚後も人気を維持し、『あじさいの歌』、『闘牛に賭ける男』など出演作の興業成績が好調であった[4]。1962年頃には渡り鳥シリーズの大ヒットで小林旭人気の高まりとともに、これまでと異なる作品に出演するようになった[4]

石原プロモーション設立、映画製作、テレビドラマ制作

1963年に石原プロモーションを設立[4]。第1回石原プロ製作映画に市川崑監督を迎え、『太平洋ひとりぼっち』を製作し[4]、この作品での芸術祭賞を授与された[7]。1968年、三船敏郎と共に製作した映画『黒部の太陽』は大ヒットした[4]。以降『栄光への5000キロ』『富士山頂』『ある兵士の賭け』など大金を費やした骨太の映画作品をいくつも世に送り出したが、映画界斜陽の時代で興業成績が悪く、事務所の経営が悪化した[8]。1971年には結核を患い療養することになる[9]

1972年、旧知の舛田利雄の勧めや[10]、 東宝と日本テレビの粘り強い交渉の末、事務所の経済的事情もあり、13話だけでという約束でテレビドラマ太陽にほえろ!』への出演を開始した[11]。予定の通り13話で降板するという石原を夫人や竜雷太らが説得し、出演を継続することとなり[12]、日活黄金期の石原を知らない若い世代にも番組においての名称であるボスとして認識されるなど[4][7][10]、人気を獲得[10]、番組は1986年まで続き、高い視聴率を記録した[4]

1973年石原プロ製作の映画『反逆の報酬』に主演、その後『凍河』に友情出演、また『わが青春のアルカディア』では声の出演をしたが、この作品が最後の主演にして最後の本格的な映画出演となった。

1976年からは『大都会シリーズ』、1979年からは『西部警察シリーズ』などの企画・助演など多面的に活躍しつづけた[7]

1977年に発売された『ブランデーグラス』は発売時にはほとんど売れなかったが、数年後に『西部警察 PARTI』の第48話「別離のブランデーグラス」の中で裕次郎が歌うと、売り上げが伸び始め、152万枚を売り上げるヒット曲となった[13]。1986年、病気療養のため渡哲也に代役を任せ『太陽にほえろ!』を一度降板、同番組の最終回718話で復帰、ワンカット7分間のアドリブで命の大切さを語る圧巻の演技を見せたが[14][15](後述のエピソード欄にアドリブの補足あり)、これが俳優としての最後の演技に、そして渡哲也との最後の共演になった[16]

闘病

1978年、舌下潰瘍のため入院、手術。その後、悪性腫瘍舌癌)との診断を受けたが、本人には告知されなかった(1983年再発)。1979年には舌下白板症と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術する。

1981年4月、『西部警察』のロケ撮影中に背中と胸に激痛が走り、慶應義塾大学病院に緊急入院。当初椎間板ヘルニアが疑われたが、その後、解離性大動脈瘤と診断され大手術を決行。生還率3%と言われたが、奇跡的な回復を遂げ無事退院した[注釈 1]。退院後も首、腰の痛み、発熱が続き、右耳が難聴となった。

1984年、肝臓癌が発覚した。前の定期健診で肝細胞癌と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知をされなかった。

1986年5月、高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断され、7月の退院後はハワイで静養した。

死去

1987年4月20日、体調不良を受けてハワイから急遽帰国し、慶應義塾大学病院へ検査入院[注釈 2]。5月2日に一旦退院したものの、3日後に再入院し容態が悪化。幻覚症状(肝性脳症)を発する。その後も意識不明の状態が続き、7月17日15時43分、医師が臨終を告げ7分後心停止。酸素吸入により一度は心拍が再開するも、16時26分再度心停止し死去。52歳没。裕次郎の遺言は「俺が死んだら即会社をたたみなさい」であったが、まき子夫人が所属俳優やスタッフに言い出せなかったため、石原プロモーションはその後も存続した。

戒名は、陽光院天真寛裕大居士。墓は、万成石五輪塔で神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑にはまき子夫人の直筆で次のような言葉で綴られている。

美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。

没後

死後に生前録音していた『北の旅人』、『わが人生に悔いはなし』が発売され、北の旅人は125万枚を売りげるヒット曲となった。

没後、毎年7月17日には總持寺で法要が行われ、裕次郎が生前あじさいの花が好きだったということにちなんで「あじさい忌」と呼ばれていた。まき子夫人や舘ひろし神田正輝ら石原プロモーションの俳優・スタッフが集結し、記者会見を行うのが定例となっていた。また多くの一般客ファンも参列し、年忌法要では一般参列者に記念品がプレゼントされるといった、身内だけの法要に留まらない大規模イベントとなっていた。1993年の七回忌は3万8000人、1999年の十三回忌は20万人以上が参列した[17]。十三回忌で20万人以上の参列者の人出で總持寺周辺が大混乱したことから、2009年の二十三回忌は国立競技場に総持寺の本殿を再現した拝殿を建てて行われ、約12万人が参列した[7]

1991年7月22日、裕次郎ゆかりの品々を展示する石原裕次郎記念館が、裕次郎が幼少時に過ごした小樽、しかもヨットマンだった裕次郎にふさわしい場所である小樽港マリーナの隣に開設された。多数のファンが訪れ裕次郎をしのぶ場となっていたが、2017年8月31日、入場者減少や施設の老朽化もあり、閉館。その代替として、2018年7月17日に行われた32回忌法要では、法要終了後、同年8月22日より2年間、全国8箇所を巡り石原裕次郎ゆかりの品々を展示する「石原裕次郎の軌跡」展を開催することを発表した[18]

そして2019年7月17日に行われた33回忌法要の終了後の会見にて、まき子夫人が、今回をもって「弔い上げ」とし今後は石原プロとしての墓前供養を行わない旨を発表した。まき子夫人のほか一般参列者が高齢化し、裕次郎の墓がある高台まで昇るのが困難になっていることへの配慮を理由とした。

2020年7月には「株式会社石原プロモーションの商号を石原裕次郎の仏前に返還する」として、2021年1月16日を以て芸能事務所としての業務を終了することが発表された[19]。そして発表通り、2021年1月16日に「解散式」が執り行われ、3月31日に全業務を終了。2021年4月30日、株主総会にて解散が決議された。

ヨットマン(ヨット乗り、セイラー)としての活動

裕次郎は日本のセーリング界でもその歴史に名を残している人物[20]である。

もともと父親が郵船会社の社員、つまりの世界に生きていた人物で、父親の転勤の折、父親の判断で海の近くの逗子、逗子湾近くに住居を構え、その地で裕次郎がヨットに興味を持ち、裕次郎の熱烈な希望に応える形で父親が木製のディンギーヨットを買い与えたのが、裕次郎にとってのヨットとの本格的な付き合いの始まりとなった[注釈 3]。兄・慎太郎も一発でこのディンギーヨットの操作方法を会得し[注釈 3]、兄弟でヨットを楽しむようになり、主に逗子湾や葉山などをフィールドに経験を深めていった。当時の日本ではそもそもセーリング・ボートを所有している人が大人を含めてほとんどおらず、ましてや学生の身分ですでに自分のセーリング・ボートを所有している人は(ほぼ)いなかったので、二人は日本のセーリング界では稀有な存在となってゆくことになった。

その後、裕次郎が俳優として映画界で活躍するようになると、石原兄弟のセーリングへの情熱、その経験や技術は、映画作品のシーン構築や撮影でも活用されるようになった。結果として日本の映画のシーンにセーリング・ボートが何度も登場するようになり、それを見た映画観客がセーリングに興味を持ち、結果として日本のセーリング人口を増やすのにも貢献した。石原兄弟は有名人となり裕福になるにつれ、艇をディンギーからセーリング・クルーザーへと、そして徐々に高級な艇へとグレードアップしていった。艇には、兄・慎太郎の趣味で「コンテッサ」という名(フランス語で「伯爵夫人」の意)をつけ、その名は艇を買い替えても「コンテッサII」「コンテッサIII」...と継承されてゆくことになる。この名は他には無い独特のものなので、日本のセーリング界では、ヨット・レースなどの出場艇のリストに「コンテッサ」とあれば、誰でも即「石原兄弟の艇だ!」と分かる存在となっていった。コンテッサには、主に石原兄弟の地元の逗子や葉山在住の古くからの仲間などが、クルーとして乗り込んだ。

コンテッサ号は、いくつもの国内ヨット・レースに参加し日本のセーリング界を盛り上げる一翼を担いつづけたが、中でも特筆すべきことは、1963年、裕次郎がトランスパシフィック・ヨット・レースに兄弟の愛艇「コンテッサⅢ」で参加したことである[20]Transpacific Yacht Race(トランスパシフィック・ヨット・レース、略称「Transpac(トランスパック)」)とは、米国西海岸から出発し、太平洋を渡るようにして進み、ハワイでゴールするセーリング・クルーザーのためのレース。当時、日本から国際的なヨットレースに参加できる人はほぼ皆無であり、裕次郎は日本のセーリング界の歴史に名を残す人物にもなった。

なお裕次郎の歴代の愛艇のうちひとつは、1991年開館の石原裕次郎記念館の入り口付近に展示された[注釈 4]


注釈

  1. ^ 見舞い客は1万2,000人、手紙5,000通、花束2,000束、千羽鶴1,000束、さらには石原の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった。
  2. ^ この時裕次郎を治療したチームの中に、後にオウム真理教にて地下鉄サリン事件などを引き起こした林郁夫がいた。
  3. ^ a b このあたりのいきさつは、石原慎太郎の小説『弟』にも(断片的に)出てくる。
  4. ^ 2017年の閉館とともに小樽港マリーナに寄贈されている。
  5. ^ 少なくとも1963年第14回に関しては本人の都合により辞退している[24]
  6. ^ 当時のヒット曲や古い流行歌など。
  7. ^ 当時金曜19:00から放送されていた「ドラえもん」は予定通り放送。20:00からの『ミュージックステーション』(以下『Mステ』)は内容を変更して追悼特番に内包された。なお、同年1月の『Mステ』に静養先のハワイから石原がゲスト出演しており、これが生涯最後のテレビ出演となった。
  8. ^ 関西地区では当時19:30から「部長刑事」が放送されていたため、この枠の他番組と同様に17:55から繰り上げ放送された。

出典

  1. ^ 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月19日閲覧。
  2. ^ 石原慎太郎・裕次郎の母 〜時代の寵児を育んで〜”. グレートマザー物語. テレビ朝日 (2002年2月24日). 2002年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月9日閲覧。
  3. ^ 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』(講談社 2003年)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 石原裕次郎略歴”. Kinenote. 2022年7月12日閲覧。
  5. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、105頁。 
  6. ^  完本 市川崑の映画たち 2015年 洋泉社、P.217
  7. ^ a b c d 新撰 芸能人物事典 明治~平成「石原 裕次郎」の解説”. KOTOBANK. 2022年7月13日閲覧。
  8. ^ 追悼・渡哲也 「石原」の看板を背負った男の運命”. =文春オンライン. 2022年7月11日閲覧。
  9. ^ 「テレビにはもう出ない」そんな石原裕次郎を翻意させた後輩のひと言 1ページ目”. プレジデント. 2022年7月11日閲覧。
  10. ^ a b c 映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也 週刊朝日ムック p.51-53
  11. ^ 「テレビにはもう出ない」そんな石原裕次郎を翻意させた後輩のひと言 2ページ目”. プレジデント. 2022年7月11日閲覧。
  12. ^ 「テレビにはもう出ない」そんな石原裕次郎を翻意させた後輩のひと言 5ページ目”. プレジデント. 2022年7月11日閲覧。
  13. ^ KAMZINE カムジン産業経済新聞社 2005年8月号、p.43
  14. ^ 石原裕次郎さん『太陽にほえろ!』ラストシーンで吸った闘病中のタバコ”. NEWSポストセブン. 2022年7月11日閲覧。
  15. ^ 「5年前にさぁ…心臓を切った大手術をしたんですよ」石原裕次郎のアドリブが光る“あの刑事ドラマ”の最終回”. 文春オンライン. 2022年7月11日閲覧。
  16. ^ a b 映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也 週刊朝日ムック p.84
  17. ^ 裕次郎さん十三回忌には20万人/大規模葬儀や法要日刊スポーツ2019年8月13日記事
  18. ^ “石原まき子さん 裕次郎さん32回忌法要で「いまだに裕次郎の女房という誇りを持っております」「石原裕次郎の軌跡」展の開催を発表” (日本語). スポーツ報知. (2018年7月17日). https://hochi.news/articles/20180717-OHT1T50105.html 2018年7月20日閲覧。 
  19. ^ 石原プロモーションよりご報告”. 株式会社石原プロモーション (2020年7月17日). 2020年7月19日閲覧。
  20. ^ a b 日本セーリング連盟の歴史(日本ヨット界の歴史)
  21. ^ 近代映画 近代映画社 1970年2月号 146頁。
  22. ^ 石原慎太郎「弟」1996年幻冬舎刊
  23. ^ 石原裕次郎さんに「異人種」と言わしめた〝多重人格〟中森明菜「自分の中に幾人もの自分が…それぞれ別人格」
  24. ^ 週刊朝日』1964年12月4日号、136頁。(「『紅白歌合戦』の予想表」『週刊朝日』1964年12月4日号、134-136頁)
  25. ^ 高柳六郎『石原裕次郎 歌伝説―音づくりの現場から』社会思想社(現代教養文庫)、2000年、101-104頁。ISBN 4-390-11637-1
  26. ^ 村西とおるの閻魔帳 「人生は喜ばせごっこ」でございます。(コスモの本、2010年)にも収録の◆ 石原裕次郎と語られることのなかった「男の物語」 村西とおる日記 2009年10月9日より。
  27. ^ 以上の2件は近代映画 近代映画社 1970年3月号 141-142頁。
  28. ^ 石原裕次郎の死因とは?大ケガ、大事故、大手術が続いた「嵐を呼ぶ男」の生涯”. HEALTH PRESS. 2022年7月12日閲覧。
  29. ^ 渡哲也さん終活 炊き出し鍋処分していた 裕次郎さんが始めた“思い出の道具類”3年かけて”. スポニチ. 2022年7月12日閲覧。
  30. ^ さよなら石原裕次郎 文藝春秋8月緊急増刊、1987年
  31. ^ (11)松方「初対面でいい思い出」(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月17日
  32. ^ TV初公開!石原裕次郎の遺品・遺した時計に衝撃の価値! フジテレビ【バイキング】|JCCテレビすべて - ウェイバックマシン(2018年7月21日アーカイブ分)
  33. ^ [直撃!シンソウ坂上 【石原裕次郎32回忌でまき子夫人&舘ひろしが坂上に秘話告白】 の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版)] - ウェイバックマシン(2018年8月5日アーカイブ分)
  34. ^ 映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也 週刊朝日ムック p.51-53
  35. ^ 「彼は闘えないと思った…」妻が語る“昭和の大スター”石原裕次郎の素顔 - FNN.jpプライムオンライン 2018年7月19日
  36. ^ (24)石原軍団、今でも映画製作の夢(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年7月4日
  37. ^ 太平洋の果実 第2部 石原裕次郎の贈りもの(PHP研究所増田久雄
  38. ^ 2012/9/3 石原裕次郎記念館 | 国立ロクの撮影日記
  39. ^ 安田就視・松本典久・清水武『昭和の終着駅 中部・東海篇』交通新聞社、2017年8月、112頁。ISBN 978-4-330-81717-0 
  40. ^ 映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也 週刊朝日ムック p.105-110
  41. ^ 洋泉社 2016年11月『映画秘宝コレクション 完全版アナーキー日本映画史1959-2016』75p
  42. ^ キネマ旬報オールタイムベスト 映画遺産200」。2009。同書160pの『紅の流れ星』の解説より
  43. ^ 太陽西から昇る”. 日活. 2022年8月18日閲覧。
  44. ^ 第50回近畿医学検査学会 - ウェイバックマシン(2016年7月2日アーカイブ分)
  45. ^ 渡辺徹、石原裕次郎さんの仰天エピ明かす 豪邸を「やるから住め!」”. デイリー. 2022年9月22日閲覧。
  46. ^ a b 映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也 週刊朝日ムック p.52-58
  47. ^ わが青春のアルカディア|キャラクター/キャスト”. 東映アニメーション. 2022年11月30日閲覧。
  48. ^ 全日本CM協議会 編『CM25年史』講談社、1978年1月15日、180 - 181頁。NDLJP:12025175/95 


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