桜井哲夫 (詩人) 桜井哲夫 (詩人)の概要

桜井哲夫 (詩人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/28 08:14 UTC 版)

桜井 哲夫
(さくらい てつお)
誕生 長峰 利造
1924年7月10日
日本 青森県北津軽郡鶴田村
死没 (2011-12-28) 2011年12月28日(87歳没)
国立療養所栗生楽泉園
群馬県吾妻郡草津町
墓地 日本 青森県北津軽郡鶴田町
職業 詩人小説家
言語 日本語
国籍 日本
最終学歴 水元村立元尋常高等小学校高等科
活動期間 1988年 - 2008年
ジャンル 小説
代表作 『津軽の声が聞こえる』(2004年)
『鶴田橋賛歌』(2008年)
デビュー作 『津軽の子守唄』(1988年)
配偶者 あり(死別)
子供 1人(死別)
所属 栗生詩話会
(国立療養所栗生楽泉園内)
ウィキポータル 文学
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経歴

13歳のときに、ハンセン病を発病。当時の唯一の治療薬であった大風子油で治療が行われたが、効果は見られなかった。1941年昭和16年)10月、17歳のときに群馬県吾妻郡草津町国立ハンセン病療養所である国立療養所栗生楽泉園に入園した[4]。もっとも当時はハンセン病療養所でも特効薬などない上に、ハンセン病は恐るべき伝染病と誤解されていたことから、事実上の隔離生活であった[5][6]当時の日本のハンセン病政策のもと、このときより「桜井哲夫」の偽名を名乗り、出自を明かすことは許されなくなった[7]

学生生活を捨てて入園を強いられた桜井は勉学を強く望んでおり、入園からしばらく後、文学を学ぶために園内の短歌会に入会。同時期に園内のある人物から仏教哲学を短歌に役立てることを勧められ、成唯識論阿毘達磨倶舎論鈴木大拙西田幾多郎の著書などを読み漁った。なお短歌会は、時代が戦中に突入したために中止となった[8]

1946年(昭和21年)、園内の女性と結婚。当時は子孫を残さないよう断種することが結婚の条件であったが、この手術が不完全だったため、妻は妊娠。人工妊娠中絶を強いられ、生まれた娘はその日の夜に死去した。1953年(昭和28年)、妻も白血病で死去した[9]

戦後にはハンセン病の特効薬としてプロミン(グルコスルホンナトリウム)が使用され始めたが、当時はまだプロミンによる治療は黎明期にあり、桜井もプロミンの過剰投与の副作用により高熱に侵され、1954年(昭和29年)に失明[10]。化膿した眼球は摘出され、声帯も侵され、両手の指も失い[11]、滅菌のために顔面を焼きごてで焼かれてケロイド状となり[12]、口角は裂け、鼻も崩れて鼻孔を残すのみとなった[13]。これらの桜井の後遺症は、園内のハンセン病回復者たちの中でも特に重いものだった。後に親交を持つ者たちも、最初に会ったときの感想を「びっくりした[6]」「直視できなかった[13]」と語っている。

詩作活動

1983年(昭和58年)、当時の栗生楽泉園の園長に詩集出版の手伝いを依頼され、園内の詩人団体である栗生詩話会に入会[14]。ハンセン病問題にも取り組む詩人・村松武司らの指導を受け[11]、失明前の記憶を頼りに、故郷の風景などを詠んだ詩の創作を開始した[15]。詩作を通じてさらに文学に傾倒し、神学も学び、聖書も読み漁った[14]。その中でも特に、国際らい学会事務局長であるスタンレー・G・ブラウン英語版には大きな影響を受けた[16]

1985年(昭和60年)に受洗し、カトリック教徒となった。ただし「教会の真面目くささが嫌い」「声が出ないから讃美歌が歌えるわけでもない」と言い、教会には年に一度行けば良い方だった[14]。受洗の動機は、聖書や賛美歌を身近なものにし、口語体の詩の韻を知りたいためと語っていた[17]

1988年(昭和63年)、亡き娘への想いなどを綴った初の詩集『津軽の子守唄』を刊行[18]。次いで栗生詩話会の選者の1人であった斎田朋雄の助言のもと、1991年平成3年)に詩集『ぎんよう』を刊行[2]。前述の村松武司が1993年(平成5年)に死去した後、桜井は村松に深く傾倒していたことから、村松への追悼を主とした詩集『無窮花抄』を翌1994年(平成6年)に刊行した[2]。前述のような視覚や指の障害に加え、皮膚感覚もほとんど失われていたために点字を打つこともできず、頭の中で組み立てた文章をほかの人が代筆することによる詩作であった[19][20]

詩集による収益は、それまでに貯めた年金と合せ、タイのハンセン病コロニーの貯水池新設のために寄付した[14][21]。日本国外のハンセン病患者たちとの共生への願いが理由であった[22]。後にはアフガニスタン支援としてペシャワール会への寄付、日本国外の難民支援を行う教会への献金などの社会貢献も果たした[21]

1995年(平成7年)、栗生詩話会の選者を務めていた森田進の当時の教え子の1人、在日韓国人3世の女学生・金正美と知り合った[23]。交流を重ね、後に祖父と孫も同然の間柄となった[14]。また、金が後述の遠出の際に同行して身の回りの世話をしたり、声帯の侵されている桜井に代わって声を出したりと[24]、重要なサポート役となることで、行動範囲も広がった。翌1996年(平成8年)、唯一の自伝小説『盲目の王将物語』を刊行。

1999年(平成11年)、前述のタイへの支援の礼としてタイのハンセン病コロニーから招待され、タイ旅行へ出発[2][21]。翌2000年(平成12年)、その体験をもとにした詩集『タイの蝶々』を刊行した[25]

2001年(平成13年)、金正美と写真家の権徹後述)の協力のもと、大韓民国釜山広域市へ出発[26]。亡き妻の父が水豊ダム建設に携わっており、その建設作業に駆り出された多くの韓国労働者がダムの底に眠っているといわれたことから、その謝罪の旅であった[27]。現地ではハンセン病の定着村など訪問し、会う人ごと謝罪を繰り返した[28]。また新羅大学校の日本文学科で詩と哲学についての講義を行ない、学生たちは涙を流しながら桜井の話に聞き入っていたという[29]。帰国直後に入院し、生死を賭けた手術を受けるが、その病床の中、日本国民としての韓国・朝鮮への贖罪の思いを綴った詩集『鵲の家』を書き下ろした[2][25]

同2001年、らい予防法違憲国家賠償訴訟の証言台に立ち、亡き妻の中絶の経験を語った[30][31]。この訴訟でのハンセン病患者に対する日本国の謝罪が機となり、同2001年10月、青森県知事が謝罪文を桜井に渡して帰郷を要請したことで、60年ぶりに帰郷を果たした。2004年(平成16年)に、郷里への想いを綴った詩集『津軽の声が聞こえる』を刊行[32]

2005年(平成17年)には「ハンセン病への偏見の根絶を世界に訴えたい」「詩集をヨハネ・パウロ2世に届けたい」との思いから、詩集『津軽の声が聞こえる』が慶應義塾大学教授のチャールズ・ドゥ・ウルフにより英訳され、『The Call of Tsugaru』の題で刊行された[15]。ヨハネ・パウロ2世の逝去によりその思いは叶わなかったが、翌2006年(平成18年)、同年に教皇に就任したベネディクト16世に詩集を献呈。このことで謁見の機会が与えられて[11]、翌2007年(平成19年)にバチカンにわたり、ベネディクト16世の一般謁見に参加。ベネディクト16世から直接の祝福を受けた[33]

2008年(平成20年)、親族の勧めのもと、最後の詩集『鶴田橋賛歌』を本名の長峰利造名義で刊行した[34]

晩年・没後

2011年秋より体調を崩し、同年12月28日肺炎のため栗生楽泉園内で死去、没年齢87歳[35]

2012年(平成24年)2月、金正美を中心とする計画のもと、東京都聖イグナチオ教会で「詩人桜井哲夫さん追悼ミサ」が行なわれた[36]。宗派を超えたこの追悼式には日本全国から150人が集い、開催は3時間におよんだ[37]。同年、両親が眠る郷里の墓に、本名の「長峰利造」として納骨された[38]

評価

栗生詩話会で桜井らの指導を務めた詩人の斎田朋雄は、桜井の作風を「表現技法を超える、たくましく明るい力を持っている[* 1]」「人間性が濃厚で、エネルギッシュだ。そして非常に分かりやすい[* 2]」と評価し、その詩的な視点を「らい文学の暗さの微塵もない、広角度の詩的視点[* 1]」、詩人としての人間像を「闘病苦、望郷への思いを超えるヒューマニズム」「思想性、左翼デモクラシーにつながる、人間の平等意識への信念」と評価した[39]

同じく栗生詩話会の指導を務めた詩人の森田進は、盲目の上に点字も使えない桜井が頭の中のみで詩を作ることを指して「少年時代の津軽のリズムが漂っている。書き言葉よりは、口承文芸的な意味の多層性や遊びやおかしみが生き生きとひきだされている[* 3]」と評価している。

自伝小説『盲目の王将物語』については、小説家の加賀乙彦は文章の軽みに着目しており、「書かれている内容が悲惨で深刻であるのに、文章は対象から一歩身を引き、そこに軽やかなユーモアと詩情を漂わすことに成功している[* 4]」と評し、その作風を「詩人の小説の趣き」と表現している[40]


注釈

  1. ^ a b 桜井 2003, p. 152より引用(斎田朋雄による解説文)。
  2. ^ 朝日新聞 2005, p. 29より引用。
  3. ^ 桜井 2003, p. 159より引用(森田進による解説文)。
  4. ^ 加賀他編 2002, p. 502より引用。
  5. ^ 北日本新聞 2006, p. 14より引用。
  6. ^ 青山 2006, p. 25より引用。
  7. ^ 開沼 2014, p. 10

出典

  1. ^ 金 2003, p. 45.
  2. ^ a b c d e 桜井 2003, p. 150-153(斎田朋雄による解説文)。
  3. ^ 松村明 編『大辞林』(第3版)三省堂、2006年10月27日、2637頁。ISBN 978-4-385-13905-0 
  4. ^ 小林 2013, p. 123.
  5. ^ 金 2003, p. 44.
  6. ^ a b 北村 2013, pp. 121–128
  7. ^ 小林 2013, p. 124.
  8. ^ 金 2002, pp. 109–113.
  9. ^ 小林 2013, p. 127.
  10. ^ 小林 2013, p. 130.
  11. ^ a b c 小林 2013, pp. 144–145
  12. ^ 金 2002, pp. 155–156.
  13. ^ a b 金 2002, p. 35
  14. ^ a b c d e 小林 2013, pp. 130–131
  15. ^ a b 「ハンセン病元患者が英訳詩集 世界に届け『偏見根絶』望郷の思いつづる『新ローマ法王に渡したい』」『中日新聞中日新聞社、2005年7月17日、朝刊、26面。
  16. ^ 金 2002, pp. 118.
  17. ^ 病と故郷 歌い上げた「世界に伝えたい」詩集の英語訳出版」『朝日新聞』(PDF)、朝日新聞社、2005年9月17日、群馬版、29面。2016年12月10日閲覧。オリジナルの2016年11月27日時点におけるアーカイブ。
  18. ^ 宮川政明他「やりきれぬ思い、なお ハンセン病最終報告書」『朝日新聞』、2005年3月2日、東京朝刊、39面。
  19. ^ 白石明彦「「詩は生きたあかし」 ハンセン病患者、半世紀の文学活動」『朝日新聞』、2000年6月27日、東京夕刊、7面。
  20. ^ 権 2013, p. 41.
  21. ^ a b c 金 2002, pp. 105–106
  22. ^ 森田 2003, p. 128.
  23. ^ 権 2013, pp. 4–10.
  24. ^ 「ハンセン病問題考えよう 元患者と交流10年 金正美さん講演 22日・高知市」『高知新聞』高知新聞社、2005年10月20日、朝刊、28面。
  25. ^ a b 森田 2003, pp. 129–131
  26. ^ 金 2002, p. 150.
  27. ^ 金 2002, p. 136-140.
  28. ^ 小林 2013, pp. 134–135.
  29. ^ 金 2002, pp. 163–166.
  30. ^ 金 2002, pp. 129–133.
  31. ^ 小林 2013, p. 133.
  32. ^ 「津軽の声が聞こえる」『産経新聞産業経済新聞社、2004年9月4日、東京朝刊、14面。
  33. ^ 「ハンセン病元患者 詩人の桜井さんがローマ法王と謁見」『北海道新聞北海道新聞社、2007年2月15日、全道朝刊、35面。
  34. ^ 小林 2013, p. 141.
  35. ^ 「桜井哲夫さん死去」『朝日新聞』、2011年12月29日、東京朝刊、34面。
  36. ^ 行方知代「来月11日に東京で桜井さん追悼ミサ」『東奥日報 朝刊』東奥日報社、2012年1月6日、20面。
  37. ^ 小林 2013, pp. 142–143
  38. ^ 北野隆一「さらば、詩人てっちゃん ハンセン病元患者の写真展、韓国人権徹さんが撮影」『朝日新聞』(PDF)、、2013年12月2日、東京夕刊、10面。2016年12月10日閲覧。オリジナルの2016年11月27日時点におけるアーカイブ。
  39. ^ 桜井 2003, p. 151(斎田朋雄による解説文).
  40. ^ 加賀他編 2002, p. 502.
  41. ^ NHKエデュケーショナルの歩み”. NHKエデュケーショナル (2016年). 2016年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月10日閲覧。
  42. ^ 第39回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2023年1月21日閲覧。
  43. ^ 日本民間放送連盟賞 / 2002年(平成14年)入選・事績”. 日本民間放送連盟賞. 2016年12月10日閲覧。
  44. ^ 日本民間放送連盟賞 / 2007年(平成19年)入選・事績”. 日本民間放送連盟. 2016年12月10日閲覧。
  45. ^ 平成24年度(第67回)文化庁芸術祭受賞一覧(参加作品)”. 文化庁. 2016年12月10日閲覧。
  46. ^ a b ハンセン病フォーラム 2016, pp. 55–60
  47. ^ 青山郁子「元ハンセン病患者描く 富山出身画家、木下さん」『毎日新聞毎日新聞社、2006年11月25日、富山版、25面。
  48. ^ 「命の輝き鮮烈に 鉛筆画家の木下さん(富山市出身) ハンセン病元患者を描く」『北日本新聞北日本新聞社、2006年10月7日、朝刊、14面。
  49. ^ 道浦律子「過酷な人生 細密描写 東京の木下さん 福井で鉛筆画展」『福井新聞』福井新聞社、2016年10月7日、朝刊、22面。
  50. ^ チョン・シンジ「権徹、日本で感動を生んだ歌舞伎町のスナイパー」『韓国のイマを伝える もっと!コリア』O2CNI、2014年12月24日。2016年12月10日閲覧。
  51. ^ 「ハンセン病元患者の苦悩 歌手・沢さん、歌で表現 城北高でコンサート」『徳島新聞』徳島新聞社、2014年6月20日、朝刊、14面。


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