出島
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外部リンク
- 長崎市 出島公式ホームページ - 長崎市による観光情報など
- 国指定文化財等データベース
- 洋書における出島図
- 出島 - NHK for School
- JAPAN IN EUROPE: A chronological bibliography of Western books and manuscripts (16th-19th century)
- Dejima Comes Back to Life
- 『出島(長崎)』 - コトバンク
- 『出島和蘭商館跡』 - コトバンク
- 『オランダ屋敷』 - コトバンク
座標: 北緯32度44分36.67秒 東経129度52分22.87秒 / 北緯32.7435194度 東経129.8730194度
- ^ 曳航される蘭帆船入港を望遠鏡で見守るシーボルトが妻・楠本瀧と娘イネを同伴 1828年ごろ 長崎歴史文化博物館
- ^ 製錬された銀地金(
灰吹銀 )をオランダ人は「Somo」「Soma」(銀鉱地区旧名「佐摩」に由来するとされる)の銘柄でそのまま商取引に利用した[7]。 - ^ なおオランダ東インド会社(VOC)は1622年マカオ攻撃に失敗し、代わりに澎湖島を占拠したが明に撤去を求められ、翌年台湾本島に安平古堡(英語: Fort Orange)を築城、8か月間の衝突ののち1624年明の許可を得てここをアジア貿易の拠点としたが1662年、鄭成功に一掃された。
- ^ 【重要文化財】福岡県立花家史料館 17-18世紀ごろ〈松平信綱の求めで平戸オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルは火薬と大砲を提供しde Rijp号で原城前(画面最上部)から艦砲射撃[10][11]。〉
- ^ 建設当初は単に「築島」とも呼ばれ面積は約15,000m2だった。なお、江戸中期に長崎貿易を調査した大岡清相の『崎陽群談』には「面積3,924坪 船着き場45坪」と記載されている。設計は日本人がオランダ人から建築技術を学び、倉庫利用のため耐火性・防火性のある石と煉瓦造りの建物を幕府に提案した。耐震面で実現には至らず防衛設備の設置も許可されなかったが、漆喰使用は許された[12]。建設費用銀200貫(約4,000両)は現代の貨幣価値に換算すると約4億円[13]、これに建物の建造費用を含め300貫と記録されている[2]。
- ^ 『オランダ商館長日記』訳文編3(上) p.229-「(1638年6月15日)...最も主要な人々の首四つは、約四〇〇〇の他の人々の首とともに長崎に運ばれ、そして若干は棒に刺して梟しものにされた...〈中略〉...十六ないし十七歳の肥後生まれの少年により週に二回の彌撒が行われていたが、この少年は彼等の主要人物でしかも首長であると認められ...」
『長崎志 正編』島原一揆征伐之畧記 p.265「一、其後大將四郎並大矢野 小左衛門 有江堅物三人ノ首長崎ニ送來リ出島(ポルトガル商館)門前ニ梟首セラル...」 - ^ 詳細は「オランダ・ポルトガル戦争#VOCの地盤」を参照「シンハラ王国とポルトガル王国の紛争#オランダの関与(1638年–1658年)」も参照
- ^ 台湾や東南アジアから渡航する中国人が直接長崎に来航しても問題ないこと、オランダがスペインとポルトガルに妨害されず長崎に来航できること、台湾に渡航する中国人を通じてオランダが日本が求める輸入品を確保でき且つ台湾に渡航する中国人が明朝の渡航証明書を持っていることなどを確認。
- ^ 川原慶賀。元日の晩餐に長崎役人及び蘭通詞を招くのがカピタン de Sturler [24][25][26]の慣わしだったが、この画は1825年Johanna Elisabeth号が8月25日に入港したので10月8日に催された本来8月24日のウィレム1世誕生日奉賀行事の模様、鳥型の装飾品附き天井ランプや壁に掛けられた額縁入りの風景画・グリフォン柄の壁紙など開け放たれたガラス窓から帆を畳んだ帆船が浮かぶ長崎港を望める部屋の内装まで描き込まれている。右手奥の机上の櫃と同様の品が現出島カピタン「17.5畳の部屋」に展示されている〈円卓中央はカピタン Johan Willem de Sturler、その向かいにカピタン子息 Jacques Eduard de Sturler、カピタンに向かって右隣はVasco da Gama号船長 Ary Bezemer、左隣は商館医シーボルト、五つ紋付羽織袴に脇差を佩く日本人客2名(酒杯を持つ人物は三つ星紋其の左は木瓜紋か)。左側に佇むのはおそらく商館員 Verkerk Pistorius或は倉庫長 Johan Gerard Frederik van Overmeer Fisscher[27]。その他丸山芸妓3名、インド人召使い1名〉。
- ^ 出島商館長コンスタンティン・ランスト・デ・ヨングは1687年江戸参府時、幕閣に「1685年以来毎年3隻以上の船の入港が許されていない、銀・金輸出は制限された」事を抗議[28]。
- ^
蔵荷役 (倉庫係)や上筆者(書記官)の兼任あり。必ずしも上級商館員とは限らなかった[29]。 - ^ 幕府は石造だった平戸商館の要塞化をおそれて破却している。なお、幕末期には出島にも石造の洋風建築がみられるようになった[2]。
- ^ 出島外に診療所兼私塾・鳴滝塾[32]開設の官許を得た。
- ^ 他にも出島とエルミナ基地にだけオランダ国旗が掲げられていたとする説がある[42][43]。
- ^ オランダ商館日記に、1820年、ヤン・コック・ブロムホフは長崎奉行の新旧交代に際し『性急者』(喜劇)と『二人猟師乳汁売娘』(オペレッタ Egidio Romualdo DUNI 作曲)を上演した、と記されている。共にフランス語作品だがオランダ語で着任したての一等書記官 Johan Gerard Frederik van Overmeer Fisscher[46]が主役を、その他の役は商館員・商船の船員がつとめた。川原慶賀が舞台装置・小道具・衣装までハイライトシーンを描出[47][48]。
- ^ Een van de illustraties in de "Souvenirs du Japon: vues d'après nature avec texte" van Graaf Johan Maurits van Lynden, de gezant van de Nederlandse koning, die naar Japan werd gestuurd om het stoomschip Soembing (omgedoopt tot Kankô-maru) aan het sjogoen aan te bieden; hij verbleef in Japan van 22 juli tot 15 november 1855. ハーグ (1860-66)
- ^ Chromolithografie in kleur:Deshima gezien vanuit het zuiden door Carl Wilhelm Mieling[注釈 16] Koninklijke Bibliotheek
- ^ オランダ門閥Van Lynden家出身の著者の伯母はオラニエ公ウィレム5世の寵姫 Constantia van Lynden、伯父はJan Elias Nicolaas van Lynden van Hoevelaken、父はJan Carel Elias van Lynden、弟はRudolph Willem van Lyndenである。
- ^ 父Isaac le MaireはAVOC 筆頭株主・VOC最初の17人会の一員。喜望峰やマゼラン海峡を経由せず南米を回る新航路でジャワ島に達したヤコブ・ルメールは兄。
- ^ 左隣のAndreas Everardus van Braam Houckgeest 著書 "Voyage de l'ambassade de la Compagnie des Indes Orientales Hollandaises, vers l'empereur de la Chine, dans les années 1794 & 1795." 挿画。1795年乾隆帝治世60年記念式典に赴くオランダ大使兼VOC代表。三跪九叩頭の礼など作法に従った一行は紫禁城入城を許され円明園に入った。前年マカートニー伯ら英国使節団は拒絶されていた。
- ^ 左端からカピタン、乳母のPetronella Muns、息子のJohannes、長椅子に妻のTitia Bergsma、ジャワ人の下男・下女 石崎融思
- ^ 主に輸入した砂糖を収めたほか、様々な個人商売用の
脇荷 収納にも使用。 - ^ 出島資料館本館。明治8年創設の出島メソジスト教会に隣接する校舎が明治16年に聖公会神学校となった。
- ^ 出島最後の外国人所有の英国式明治洋風建造物
- ^ 出島は国の史跡で、橋を支える橋台を設置できないので歩行者がいないときは出島側に負担がかからない工法が考案された[68][69]。
- ^ VOC・AMSTERDAM ANNO1640・帆船絵の刻印から、1640年Assuerus Coster社製でVOCアムステルダム支店の帆船搭載の一門と考察される。1954年、浦上河口で発見され1978年、復元砲架が Netherlands Overseas Historical Preservation Society より寄贈された。
- ^ イサーク・ティチング 著 沼田次郎 訳『ティチング日本風俗図誌』 挿画 新異国叢書 第I輯 第7巻 雄松堂書店 1968年 ISBN 4841901728
- ^ a b c d e f g “長崎『出島』の復元と考察”. 大林組. 2020年7月9日閲覧。
- ^ 越中 1978, p. 160.
- ^ 出島和蘭商館跡 長崎市HP
- ^ a b c d e f g 大平晃久「長崎出島における復元整備の経緯と問題点」『歴史地理学』第56巻第1号、21-31頁。
- ^ 山口 2012, p. 12-13.
- ^ 石村禎久 著『石見銀山:戦国の争乱・鉱山社会・天領』石見銀山史年表 p337-344 石見銀山資料館 1988年 NCID: BA81378103
- ^ Denis Twitchett/Frederick W. Mote "The Cambridge history of China, Volume 8, The Ming Dynasty 1368-1644, Part 2"; Cambridge University Press, 1998. ISBN 0-521-24333-5
- ^ 詳細は「英語: アントウェルペン陥落」を参照
- ^ Doeff, Hendrik. "Recollections of Japan". (2003) Victoria, BC: Trafford.
- ^ Murray, David. "Japan"New York: GP Putnam's Sons. (1905).
- ^ Ito 1973, p. 83.
- ^ a b “出島(長崎出島オランダ商館跡)”. 長崎ん町. 2014年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月19日閲覧。
- ^ 越中 1978, p. 160-161.
- ^ 長崎代官を通じてポルトガル船舶載品目録や五箇所商人の長崎奉行宛て大割符施行願、シャム王室宛て唐通事起草書翰の写しを呈した。
- ^ ケンペル『日本誌』1729年 Universiteitsbibliotheek Leiden
- ^ 二軒茶屋名物祇園豆腐の早切りを楽しむ『拾遺都名所図会』1787年
- ^ 画面右上狂歌 "阿蘭陀が 足もかゞまぬ目で見れば 天地も動く竹田からくり" 秋里籬島 竹原春朝斎他『摂津名所圖会』竹田近江
機捩戯場 1796年 - ^
- ^ 松竹秀雄 著『寛永17年 (1640) ポルトガル使節団長崎受難事件(2)』 "經營と經濟" 68巻4号 p.45- 1989年3月発行
- ^ 西日本新聞 (2019年5月26日) 長崎#長崎・佐世保版 "1640年に長崎で処刑されたマカオ使節カルバーリョの甥が書いた嘆願書" 長崎・ポルトガル関係2史料発見 鎖国、海防強化示す(岡 美穂子 東京大学史料編纂所准教授 提供)
- ^ 南蛮貿易#禁教と南蛮貿易の終焉・日本とポルトガルの関係#鎖国まで
- ^ 川原慶賀 1825年 Museum aan de Stroom
- ^ Nederland's Adelsboek 94 (2009) p.247-263
- ^ Sturler, J.W.E. de Généalogische aanteekeningen van de familie De Stürler, Deventer:P. Beitsema, 1882.
- ^ 『商館長ステュルレルの日記とメイラン日欧貿易概史』 松方冬子他 編 日蘭交渉史研究会 訳 東京大学出版会刊 2021年1月 ISBN 9784130263511
- ^ 【Kotobank】- フィッセル 著『日本風俗備考』
- ^ General Missives of the Governors-General and Councils to Heren XVII of the Dutch East India Company (1975) by W.Ph. Coolhaas, Vol. V (1686-1697), p.130.
- ^ 岩生成一著『日本の歴史 14 鎖国』〈中公文庫〉中央公論新社、2005年9月 ISBN 4-12-204589-4
- ^ 今村秀明所蔵の掛軸 片桐一男
- ^ 長崎の商家俵屋の娘だが出島に出入りするために妓楼に手数料を払い名義だけ妓籍を入れた「名付遊女」。源氏名、
其扇 - ^ シーボルト妻子像螺鈿合子 等を有する現シーボルト記念館隣地。
- ^ 出島の定め
- ^ 商館医が町にもたらしたもの 出島370年物語より
- ^ イライザ号(米船籍、1797年から1799年傭船契約) Viallé, Cynthia & Leonard Blussé『出島ダグレジスター』: 原著目次:Vol.X 1790-1800 ライデンヨーロッパ拡張史研究所 (1997年) p.235
- ^ ドゥーフ像
- ^ “vol.2 カピタン部屋の移り変わり(2012年2月) < 出島370年物語 < ナガジン”. 長崎市. 2014年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月20日閲覧。
- ^ “ナガジン!コラム 出島 あらたな魅力発信 第4回 出島を守りつないだ人~ドゥーフからブロンホフそしてシーボルトへ(2016年1月)”. 2024年1月22日閲覧。
- ^ 異国叢書(第5)『ヅーフ日本回想録 フィッセル参府紀行』斎藤阿具訳註 1928年8月10日発行
- ^ 蘭領ギニア海岸"De nederzetting Elmina aan de Goudkust" Webster, G. (1806) het scheepvaart museum
- ^ Een woord aangaande de vraag: "Wat moet Nederland doen met zijne bezittingen ter kuste van Guinea?". The Hague: H.C. Susan, C.Hz.
- ^ 渡辺孝次. “オランダ史4”. 松山大学. 2024年1月22日閲覧。 “怒ったナポレオンは2万人の軍隊をオランダに派遣すると同時に、1810年7月、軍事力を背景にオランダをフランスに併合してしまう。こうして、オランダという国は地図の上から消滅した。この後5年間、オランダ国旗の翻っていたのは長崎の出島と、アフリカ西海岸にあるエルミナ基地だけであったということだ。”
- ^ 中川寛子「長崎市・出島。史跡指定から100年余に及ぶ復元整備への道とこれから」『住まいの本当と今を伝える情報サイト【LIFULL HOME'S PRESS】』、2024年1月3日。2024年1月22日閲覧。「ちなみにフランスがオランダを併合していた5年間、各所でオランダの国旗が降ろされた中、出島とアフリカ西海岸にあるエルミナ基地ではオランダ国旗が掲げられ続けた。」
- ^ ヤン・コック・ブロンホフ夫人Titia Bergsmaと幼児Johannesを抱く乳母Petronella Muns
- ^ 竹内有一『スクエアピアノ - 長崎オランダ商館長夫人ティティア - 文化14年のピアノ奏図 - 日蘭交流の舞台裏』〈国立音楽大学研究紀要 / 国立音楽大学紀要編集委員会 編 36〉p.81-92 立川:国立音楽大学紀要編集委員会 2001年
- ^ "江戸で日蘭仮装パーティー 出島商館長らと親密交流『1822年 長崎屋宴会図』神田外語大付属図書館 蔵".日本経済新聞 2019年9月21日.
- ^ 『出島俄芝居圖』長崎歴史文化博物館
- ^ 竹井成美 著『1820年代の出島における音楽状況: オペレッタ上演とシーボルトのピアノを中心に』 宮崎大学 2005-2006年 出版
- ^ 長崎海軍伝習所練習艦としてウィレム3世より家定へ贈呈。
- ^ a b 山口 2012, p. 16.
- ^ 【kotobank】- ネーデルラント貿易会社
- ^ 山口 2012, p. 10.
- ^ 越中 1978, p. 164.
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- ^ a b 山口 2012, p. 12.
- ^ 山口 2012, p. 13-14.
- ^ 山口 2012, p. 19.
- ^ 焼失した方広寺大仏 大英博物館 B.M.ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』p.95 中央公論社 1994年
- ^ 『日本誌』1690-1693年ごろ
- ^ 『妹背山婦女庭訓』江戸参府途上於大阪 1826年 国立民族学博物館 ライデン
- ^ 司馬江漢 19世紀初頭
- ^ 山口 2012, p. 14-15.
- ^ 山口 2012, p. 15.
- ^ 山口 2012, p. 15-16.
- ^ 互い違いに積み上げられた棹銅入箱
- ^ 山口 2018, p. 101.
- ^ 山下久猛. “「2つの壁」を乗り越え、“出島”に再び橋を架けろ!――出島表門橋架橋プロジェクト・渡邉竜一氏たちの挑戦”. リクナビNEXT. 2020年5月26日閲覧。
- ^ 山口 2018, p. 80.
- ^ “【平成の長崎】出島表門橋が開通 日蘭友好誓い記念式典”. (2019年3月10日) 2024年2月13日閲覧。
- ^ “長崎・出島:「表門橋」130年ぶりに復元”. 毎日新聞. (2017年11月24日) 2018年10月12日閲覧。
- ^ 山口 2018, p. 10.
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