出島オランダ商館とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 出島オランダ商館の意味・解説 

出島オランダ商館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 01:35 UTC 版)

オランダ商館」の記事における「出島オランダ商館」の解説

詳細は「出島」を参照 長崎港内に築かれ人工島出島は、面積3,969坪(約13,000m2)で4区画に分かれオランダ人日本諸役人通詞の家や倉庫など65棟が建っていた。 出島滞在するオランダ人商館長カピタン)、次席ヘトル)、荷倉役筆者外科医台所役、大工鍛冶など9人から12-13人で、自由だった平戸とは違い国立牢獄」と呼ぶほど長らく自由な生活を送っていた。商館長は年に1回(のち5年1回江戸参府し、将軍謁見した。 オランダ商館長崎奉行管轄下に置かれ長崎町年寄の下の乙名オランダ人直接交渉した出島乙名島内居住しオランダ人監視輸出品荷揚げ積出し代金決済出島出入りオランダ人日用品購買監督行った乙名の下には組頭筆者小使など40人の日本人がいた。通詞は140人以上いた。出島商館への出入り一般に禁止されていたが長崎奉行所役人長崎町年寄オランダ通詞出島乙名組頭日行使、五箇宿老出島町人公用場合限り出入り許された。 ナポレオン擁するフランスにより、オランダは一旦事実上国体を失うが、1811年イギリスオランダ領東インド制圧してから1815年オランダ再独立を果たすまでの間、当時商館長ドゥーフ出島オランダ商館に旧オランダ国旗を掲げ続け、「世界唯一のオランダ国であったことでも知られる1856年出島解放令出され出入りは全く自由となった1858年日蘭通商条約成立により商館長外交代表に任命され1860年には商館オランダ総領事館兼ね商館長総領事となった出島オランダ商館には、江戸初期から幕末に至る230年余り出来事などを記したオランダ商館日記』が保存されていた。 なお、1793年オランダネーデルラント連邦共和国)がフランス革命軍に占領され滅亡してから1815年オランダネーデルラント王国)が建国するに至るまでの22年間、オランダ領土はこの地球上存在していない。そのため、1797年オランダ東インド会社傭船契約結んだアメリカの船が出島入港するようになり、1799年オランダ東インド会社解散してもなお、アメリカの船は1809年まで出島入港して貿易行った詳細は「黒船来航」を参照

※この「出島オランダ商館」の解説は、「オランダ商館」の解説の一部です。
「出島オランダ商館」を含む「オランダ商館」の記事については、「オランダ商館」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「出島オランダ商館」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「出島オランダ商館」の関連用語

出島オランダ商館のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



出島オランダ商館のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオランダ商館 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS