ゲーデルの不完全性定理 誤解(哲学等による誤解・誤用)

ゲーデルの不完全性定理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 09:31 UTC 版)

誤解(哲学等による誤解・誤用)

コンピュータ科学者数理論理学者哲学博士(Ph.D. in Philosophy)のトルケル・フランセーン[7][28]によれば、不完全性定理のインパクトと重要性について、しばしば大げさな主張が繰り返されてきた[29][注 14]。たとえば

数学の思考に変革をもたらした

数学ばかりでなく、科学全体も一新した

数学だけではなく、哲学言語学、計算機科学と宇宙論にまで革命を起こした

という言があるが、これらは乱暴な誇張とされる[29]。不完全性定理が一番大きな衝撃を与えたと思われる数学においてさえ、「革命」らしきものは何も起きていない[29]

この定理は、数理論理学(数学の比較的小さな領域)で常に使われているが、普通の数学者の仕事にはほとんど何の役にも立っていない[29](そもそも計算機科学は、不完全性定理の証明後に、アラン・チューリング主導で成立した[30]。不完全性定理が計算機科学に革命を発生させたと述べるのは、時系列が誤っている[30])。

ゲーデルの完全性定理と不完全性定理は、革命的出来事ではなく時代の流れの産物だった[30]。ゲーデル以外の誰かがこれらの定理を発見するのは時間の問題だったとされており、ゲーデル自身もそう見ていた[30]

数学上の「無矛盾性」と不完全性定理について、フランセーンは以下の通り解説している[9]

「ゲーデルの定理のどこを見ても、“数学で使われているどんな形式体系も、その無矛盾性にはまったく疑いがない”という立場と矛盾してはいない。実際、これらの体系の公理が真であり、そして無矛盾であるという絶対確実な知識をもっていると主張しても、ゲーデルの定理のどこにも相反しないのである。」[9]

誤用例

フランセーンは『ゲーデルの定理:利用と誤用の不完全ガイド』において、ゲーデルの定理が広範に誤用されていることについて論じている[31]

一般社会・インターネット

数学者・数理論理学者の田中一之によれば、ゲーデルの名や定理は「知的会話」に頻出している[32]。フランセーンが述べたように、インターネットのどんなニュースグループでも、遅かれ早かれ誰かがゲーデルの定理を持ち出す[32]。そういった一般的な引用における間違いを正すことが、フランセーンの著書の目的となっている[32]

1931年にゲーデルが示したのは、「特定の形式体系において決定不能な命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」についての定理ではない[8]

フランセーンによれば、ゲーデルの不完全性定理と結び付けられるテーマはロジック、数学、計算哲学物理学進化論政治宗教無神論神学文学詩歌写真建築音楽ヒップホップデートなど多岐にわたる[33]形式論理学のような専門領域の外では、不完全性定理についての言及の多くが、哲学的であり「ひどい誤解や自由連想に基いている」ため、馬鹿げているとさえ言える[31]。たとえば、

ゲーデルの不完全性定理は、客観現実の存在は証明できないことを示している
ゲーデルの不完全性定理によって、すべての情報は本質的に不完全で、自己言及的である
存在意識を同等に考えることによって、私たちはゲーデルの不完全性定理を進化論に応用できる

などが見られる[31]。ゲーデルの理論の誤解は、一般的な人々の間でも起こっている[31]。たとえば

ある種の事実は、論理や数学でうまく証明できない
何ものも確実に知り尽くすことはできない
人間の心は計算機コンピュータ)ができないこともできる

などである[31]

数学以外の学問

田中によれば、ゲーデル自身が不完全性定理について明言しているのは、1963年8月28日の次の文言である[8]

「ある程度の有限算術を含むどんな無矛盾な形式体系にも決定不能な算術命題が存在し、さらにそのような体系の無矛盾性はその体系においては証明できない。」[8]

ゲーデルは慎重を重ねて言葉を選んでいるため、この表現を安易に変えようとすると、不具合を生じる[8]。実際、この定理のいずれかの条件が落とされることで、多数の誤解が生じている(特に「有限的算術を含む」という条件が落とされていることが多い)[8]。「ある程度の有限的算術を含む」という条件を、「十分大きな」「十分複雑な」「十分表現力のある」などといった曖昧な条件に置き換えることは誤りだが、一般向けの解説などには横行している(実際には、大きな理論で完全なものもあれば、小さな理論で不完全なものもある)[8]。さらに見落とされやすい点は、不完全性定理の前提および結論部に「算術の条件」があることである[34]

要するに不完全性定理は、「算術を含む体系がその算術部分で不完全である」という主張であり、その算術の外側が完全か不完全かについては、この定理は何も語っていない[35]

高名な物理学者でさえ、間違いを冒すことがある[35]フリーマン・ダイソンスティーヴン・ホーキングの論説は、万物理論の可能性を否定するのにゲーデルの定理を持ち出した[35]。しかし仮に物理理論に不完全性定理が適用できたとしても、不完全性はその算術部分に見つかるだけで、その理論が完全か不完全かは別の問題である[35]

哲学

ゲーデルは「合理的な神学」の可能性を信じてはいたが、特定の宗教組織に所属することはなく、不完全性定理から哲学的・神学的解釈を引き出そうと試みることもしなかった[36]。しかし一方で哲学や神学は、ゲーデルや不完全性定理を自分たちへ結びつけようとしてきた[37]

アラン・ソーカルジャン・ブリクモンは、脱近代主義(ポストモダニズム)に対する論評『「知」の欺瞞』の中で、「ゲーデルの定理こそ汲めども尽きぬ知的濫用の泉である」と述べ、レジス・ドブレミシェル・セールらの文章を批判している[38][31]。また、哲学者によるゲーデル関係の本が、フランセーンの本と同じ頃に書店販売されていたが、哲学者の本は専門誌によって酷評された[39]。その本は全体として読みやすく一般読者からの評判は高かったが、ゲーデルの証明の核(不動点定理)について、根本的な勘違いをしたまま説明していた[39]。同様の間違いは他の入門書などにもあり、田中は

「一般の哲学者は、論理専門家ではない」

と述べている[39]。哲学者または宗教家が、

不完全性定理には数学の外に無数の応用例がある

といった考えを表明することは珍しくない[40]。しかし、不完全性定理とは「算術の公理系PAや公理的集合論ZFCのような形式体系を扱う数学の定理」であり、哲学や宗教はこの点を踏まえていない[41]。要するに不完全性定理とは、数学内の「形式体系」(フォーマルシステム)についての定理である[41]。確かに、思想・哲学・神学・信仰聖書法律裁判等を「形式」や「体系」や「形式体系」と呼ぶ人も存在するが、それらは数学内の一分野「形式体系」ではない[42]。数学内の「形式体系」を研究し応用できる範囲は、数学や計算機コンピュータ)である[43]

嘘つきのパラドックス(「ウソつきの逆理」)には、「この文は偽である」といった代表的表明があるが、このパラドックスも、不完全性定理が誤用されている一例として挙げられている[44]。定理を非数学的に「応用」した文章や嘘つき文は、以下のような長い(あるいは果てしない)議論を呼び起こしている[44]

証明とは何か
真なる言明とは、健全な論証とは何か
何かが真であると示すこととは、何かが納得できるとは、何かを信じるとは、意味ある言明とは何か

このような誤用や議論は、人々の心に謎や「愉快な混乱」を発生させているかもしれないし、「哲学的に重要性をもっている」かもしれないが、不完全性定理とは関係が無い[44]。そもそも数学上では、「真偽」や「証明」といった用語が既に明確に定義されており、不完全性定理もそれらの数学用語に従っている[44]

宗教

フランセーンによれば、次のような講釈さえ存在する[45]

ゲーデルの不完全性定理は、数学的なアプローチ証明なしにも直観的に理解しうるものである。実際、仏教思想のなかにも明瞭にそれとわかる形で不完全性の概念が出現しているからだ。[45]

実際には不完全性定理は、「形式体系の無矛盾性と完全性についての定理」である[45]。確かに「矛盾」「無矛盾」「完全」「不完全」「体系システム)」という語は、専門用語でない言語とも結びつきがあるが、およそこのような結びつきは不完全性定理と関係が無い[45]

神学

神学にも不完全性定理は持ち込まれ濫用されており、たとえば『キリスト教と数学の書誌学』(1983年)がある[37]

ゲーデルの不完全性定理は … 自由への道を示す。[37]
〔この論文では〕ゲーデルの定理を用いて、物理学者が物質実在の最終的理論を決して定式化できないことを示す。 … 人間がたんなる論理機械以上のものであるという適切な見方を発展させる[37]
数学者も彼らのシステムで数学的真理のすべてを把握できないのだから、神学者が、すでに明らかになった真理をうまく体系化できなくても気に病むには及ばない。[37]
科学の方法、技法、仮定が、完全に科学に基礎づけられるはずはないことは、ゲーデルの定理からの類推によって説明される。それらの妥当性を判定するためには、科学の外のリソースを使わなくてはならない。[46]

ダニエル・グレーブスは次の通り「考察」をしている。[37]

ユダヤキリスト教は、真理はたんなる理性で推し量れる域を越えていると長い間考えてきた。的な真理は、霊魂によってのみ理解される、と私たちは教えられている。それも、そうあるべくしてそのようにある。ゲーデル流の構図は、キリスト教徒が宇宙について信じていることに適っている。[47]

ナジャムディン・モハメッドも、神学的に「応用」している[48]

あなたが世界をどのように(論理的規則で)記述しても、あなたにか判定できない「何ものか」がつねにあるであろうことが指摘されている。 … これは、ゲーデルの不完全性定理の基本である。 もし私たちが論理や推論だけに頼るなら、互いに矛盾しているが論理的に自己無矛盾な推論・論理システムが多数生じ、完全な混乱状態で終わることもありうる。どっちが正しいか? すべての事柄は、何がよいか悪いかのように現在の心理的な傾向に依存するものなのか? こういう場合には「正しさ」は意味をもたず、まさにこのことが不可知論無神論の立場を招きうるのだ。[48]

これらの考察と、「ポストモダン的状況」(脱近代的状況)という考え方には類似性がある[49]。そうした理屈では、不完全性は無数の様々な無矛盾理論を導き、どこで「真理」が手に入るかは誰も知らない(したがって、理性だけで正しい道を歩むことはできず、信仰が進むべき道となる[50])。

しかし実際の数学では、そのような枝分かれは無く、「決定不能性の海」の中でもがくようなことも無いため、そのような「混乱」は神学的幻想に過ぎないとされている[50]

誤用の分類

田中はゲーデルの定理の様々な誤用を分類している[51]。その一つは、人間の悟性が陥りやすい間違った傾向である[51]。たとえば、自分が思いつく有意義そうな体系がどれも不完全であるので、「有意義な体系はすべて不完全である」と思い込み、さらにその原因を定理か何かに帰着させようとする傾向である[52]

別の誤用は、言語の誤用である[51]。不完全性定理に含まれる「矛盾」「完全」「体系(システム)」などの語は、日常では多様に使われている[51]。そこを混同すれば、ゲーデルの定理までが非形式的(インフォーマル)な意味と結び付けられる[51]


注釈

  1. ^ 原文:数学の基礎をめぐる論争の実質的な勝者が形式主義である … .不完全性定理は数学そのものについての定理ではなく,「形式化された数学」に関する定理であり,形式主義的な数学観についての定理である.[4]
  2. ^ 原文:ゲーデルの不完全性定理は有限の立場(形式主義)で数学の無矛盾性を証明することはできないことを示した.ゲンツェン(Gentzen)は,有限の立場より緩い制限のもとで自然数論の無矛盾性を証明した.[3]
  3. ^
  4. ^
  5. ^
  6. ^ 歴史的には論理式のゲーデル数化の概念が先に生まれ、後にコンピュータがデータを数値で表すようになった。なお、ゲーデル自身は、素因数分解の一意性を利用して論理式のゲーデル数化を実現している。
  7. ^ 実際、が証明可能ならの証明系列が存在するので、論理式の列のゲーデル数をとすると、「Proof」が証明可能、したがって特に「」=「」が証明可能。一方我々は「」が証明可能な事を仮定していたので、これは矛盾である。
  8. ^ ω無矛盾とはが証明できれば、を満たす自然数が実際に存在することを指す。定義より「」は「」であった。ω無矛盾性より、「」を満たす自然数が実際に存在し、をゲーデル数に持つ論理式の列がの証明系列になる。
  9. ^ 訳注:自己言及的でないこと。
  10. ^ 訳注:この場合の「帰納的可算」とは、すべての定理のゲーデル数を枚挙する計算可能関数が存在する(実効的に枚挙可能)ことを意味する。クレイグのトリックによれば、このことは定理集合が帰納的な公理系から生成される(演繹閉包である)ことと同値である。
  11. ^
    数学基礎論と不完全性定理


    数学の正しさには一分の隙もなく,数学では矛盾する二つの結論が導かれることは決して無いと昔から信じられている. … そもそも「信じられている」という言葉を使うことは不適切であり,不謹慎でさえあるかも知れない.

    この数学の正しさと無矛盾性に対する確信が揺らいだことがかつて一度だけあった. … 19世紀末から20世紀初めにかけて数学の中で次々と逆理が発見された.正しさは数学の絶対的な規範であり,たとえ一ヵ所にでも亀裂が入れば数学の世界全体は粉々に砕けてしまう.[23]
    この数学の基礎に関する「不安の時代」には … 果たして数学は正しく無矛盾なのか,そもそも定理や証明とは何なのかといった哲学的な問題に対して,伝統的な哲学的手法によってではなく,数学的手法を用いて答えようとする形式主義の試みの中から数学基礎論と呼ばれる数学の一分野が生まれた.[25]

  12. ^
    宴のあと


    数学の危機が真面目に論じられていた「不安の時代〔19世紀末~20世紀初頭〕」は意外に簡単に終わった.現在,数学の基礎を本気で心配している数学者はまずいない. … 「不安の時代」が通り過ぎた後,数学基礎論は哲学と袂を分かち,独自の数学的な問題意識や価値観を見出した.数学基礎論の専門家は「哲学的な動機のもとで数学基礎論を語る時代は終わった」と考えるようになり … 数字基礎論は普通の数学に生まれ変わった.

    不完全性定理についても数学基礎論の専門家の間では,哲学的な意義よりも様々な数学的応用可能性のほうが大切であると考えられるようになった.
    電子技術の爆発的な発展と共に成長した計算機の基礎理論においても不完全性定理は重要な基本定理の一つであるが,そこでも不完全性定理は定理の主張そのものよりも,定理の証明の中で提案され用いられた様々な考え万や,不完全性定理から導かれる事実のほうが遥かに重要であると考えられているであろう.[2]

  13. ^

    数学と哲学

    20世紀初頭の数学の基礎に関する「不安の時代」には,数学者と哲学者は共に数学の基礎について論じていた.
    それが今では数学者と哲学者は極めて疎遠である.数学者,特に数学基礎論の専門家は哲学者による数学の基礎についての議論を最近の数学を無視した色褪せた100年前の論争の焼き直しに過ぎないと感じ,哲学者は最近の数学としての数学基礎論の進展を重箱の隅をつつくような技術的で瑣末な話題だと考えている.[26]

    数学基礎論が哲学との繋がりを失ったことを知らない数学者は今でも数学基礎論のことを「哲学のようなもの」と考えている. … この,数学基礎論が「哲学のようなもの」であるという考えは,「哲学のような深い立派なもの」ではなく,「哲学のようなツマラナイコト」という意味であるため,このような考えを「他愛ない無邪気なもの」とは見過ごせない数学基礎論の専門家は,数学基礎論が哲学ではなく数学であることの説得を,何度となく試みてきた.[27]

  14. ^ フランセーンはストックホルム大学哲学を専攻し、1987年に「Ph.D.(哲学)」を取得[7]ルレオ工科大学でのフランセーンのページによると、「(哲学における)自分の博士論文 “my PhD thesis (in philosophy)”」は世界各国の大学図書館で閲覧できる[28]

出典

  1. ^ 青本 et al. 2005, p. 510.
  2. ^ a b c d e 菊池 2014, p. iii.
  3. ^ a b c d 青本 et al. 2005, p. 294.
  4. ^ a b 菊池 2014, p. 9.
  5. ^ a b c d e f g 日本数学会(編) 2011, p. 357.
  6. ^ 菊池 2014, pp. ii–iii.
  7. ^ a b c d フランセーン 2011, p. 奥付け.
  8. ^ a b c d e f g h フランセーン 2011, p. 230.
  9. ^ a b c フランセーン 2011, p. 145.
  10. ^ フランセーン 2011, p. 4, 7, 126-127.
  11. ^ a b c d フランセーン 2011, p. 54.
  12. ^ 菊池 2014, p. 5.
  13. ^ a b c 菊池 2014, p. 248.
  14. ^ 照井一成 (2018年). “数理論理学 II (不完全性定理)” (PDF). 2023年4月6日閲覧。
  15. ^ 青本 et al. 2005, p. 116.
  16. ^ a b 日本数学会(編) 2011, p. 355.
  17. ^ フランセーン 2011, pp. 21–22.
  18. ^ a b フランセーン 2011, p. 22.
  19. ^ フランセーン 2011, pp. 22–23.
  20. ^ a b フランセーン 2011, p. 47.
  21. ^ フランセーン 2011, pp. 47–48.
  22. ^ 菊池 2014, p. 奥付け.
  23. ^ a b 菊池 2014, p. i.
  24. ^ 菊池 2014, pp. i–ii.
  25. ^ a b c 菊池 2014, p. ii.
  26. ^ a b c 菊池 2014, p. 11.
  27. ^ a b 菊池 2014, pp. 11–12.
  28. ^ a b Franzén 2008, p. Torkel Franzén.
  29. ^ a b c d フランセーン 2011, p. 9.
  30. ^ a b c d フランセーン 2011, p. 10.
  31. ^ a b c d e f フランセーン 2011, p. 4.
  32. ^ a b c フランセーン 2011, p. 229.
  33. ^ フランセーン 2011, pp. 3–4.
  34. ^ フランセーン 2011, pp. 230–231.
  35. ^ a b c d フランセーン 2011, p. 231.
  36. ^ フランセーン 2011, pp. 125–126.
  37. ^ a b c d e f フランセーン 2011, p. 126.
  38. ^ ソーカル & ブリクモン 2012, p. 262.
  39. ^ a b c フランセーン 2011, p. 233.
  40. ^ フランセーン 2011, p. 107.
  41. ^ a b フランセーン 2011, p. 108.
  42. ^ フランセーン 2011, pp. 108–109.
  43. ^ フランセーン 2011, pp. 112–113.
  44. ^ a b c d フランセーン 2011, p. 120.
  45. ^ a b c d フランセーン 2011, p. 7.
  46. ^ フランセーン 2011, p. 127.
  47. ^ フランセーン 2011, p. 128.
  48. ^ a b フランセーン 2011, p. 131.
  49. ^ フランセーン 2011, pp. 131–132.
  50. ^ a b フランセーン 2011, p. 132.
  51. ^ a b c d e フランセーン 2011, p. 234.
  52. ^ フランセーン 2011, pp. 234–235.






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