「知」の欺瞞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/04 08:53 UTC 版)
「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用 Impostures Intellectuelles | ||
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著者 |
アラン・ソーカル ジャン・ブリクモン | |
訳者 | 田崎晴明・大野克嗣・堀茂樹 | |
発行日 |
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発行元 |
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ジャンル | ポストモダニズム・科学哲学 | |
国 |
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言語 | フランス語 | |
形態 | 上製本・文庫本 | |
ページ数 |
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コード |
ISBN 2-7381-0503-3 ISBN 2-253-94276-6 ISBN 1-86197-631-3 ISBN 0-312-19545-1 ISBN 978-4-00-005678-6 ISBN 978-4-00-600261-9 | |
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『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』(ちのぎまん ポストモダンしそうにおけるかがくのらんよう、英: Fashionable Nonsense: Postmodern Intellectuals' Abuse of Science, 仏: Impostures Intellectuelles)は、物理学者のアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの著書。ソーカルはいわゆるソーカル事件で知られている。学術誌のソーシャル・テクストに意図的に無意味な論文を投稿し、そしてそれが実際に掲載されてしまったのである[1][2]。
この本がフランス語で出版されたのは1997年である(英語版はその翌年の1998年)。英語圏での議論へ周到にそなえ、英語版は書き改められている[3]。本書はサイエンス・ウォーズと呼ばれる論争の一部であり、ポストモダンの著作において科学や数学の概念が誤用されていると考えたソーカルとブリクモンは、学問の世界におけるポストモダニズムをおおいに批判している。二人の批判は、自分でも理解していないことを書いているポストモダニストの告発であった。科学者コミュニティからの反応はおおむね好意的であった。人文学者による本書への反応は「二分」されたともいわれている[注釈 1]。
要約
『「知」の欺瞞』は、隣接する2つのテーマを分析している。
- 非常に影響力をもった哲学者や知識人には、科学的概念の不完全かつ欺瞞的な使い方をしている者がいないか
- 認識的相対主義の問題、つまり「現代科学は『神話』や『物語』、『社会的構築物』以上の何かではない」(科学社会学におけるストロング・プログラムにみられるような)という立場について
科学的概念の不正確な用法か科学的メタファーか
本書の目的は、「哲学、人文科学、あるいは、社会科学一般」を攻撃しようとしているのではなく、「〔それとは正反対で〕明らかにインチキだとわかる物について、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発」することだとソーカルたちは書いている[4]。特に「脱構築」概念について書いている本や思想家にあてはまる。そこでは深遠かつ難解な思考が繰り広げられているために理解が困難だとされているからである。「テクストが理解不能に見えるのは、他でもない、中身がないという見事な理由のためだ」[5]。
この本には、ジャック・ラカン、ジュリア・クリステヴァ、ポール・ヴィリリオ、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、リュス・イリラガイ、ブルーノ・ラトゥール、ジャン・ボードリヤールなどの著作から長文の引用が行われている。彼(女)らは、出版物の量だけでなく招待講演、被引用回数からいっても、大陸哲学、批評理論、精神分析、社会科学といった学問における中心人物であった。ソーカルとブリクモンは、上記の知識人がいかに物理学や数学の概念を不正確に使用しているかを示そうとする。文脈から切り取られているという批判を避けるために、あえて長文で引用が行われている。
ソーカルたちは、ポストモダニストの思想一般を論じるつもりはないと語る。そうではなく、数学と物理という著者二人が研究や教育のためその生涯をささげてきた学問の科学的概念が濫用されていることを知ってほしいのだという。
ソーカルとブリクモンは、その濫用を次のように定義する[6]。
- 科学(あるいは疑似科学)的な用語を、それがまさに何を意味しているのか気にすることなく使用すること
- 自然科学の概念を、最低限の正当化を経ることなく、またそれを用いる理由も提示しないまま、人文科学に持ち込むこと
- 無関係な文章に恥ずかしげもなく専門用語をちりばめて、博識に見せかけること。おそらく、専門家ではない読者を感心させるだけでなく威圧しようとしている
- 深遠にみえて実際には無意味な言葉や文章を綴ること
- 著者の能力をはるかに超えた話題についても自信を持ち、その言説に浅薄な厳密さを加えたいがために、科学について払われている敬意を利用すること
本書では、上記の著者たちにそれぞれ章が割かれ、「神秘的にみせたり、わざとあいまいな言葉遣いをしているもの、乱雑な議論、科学概念の誤用」[7] と呼ばれる、知識人たちの営為からその「氷山の一角」が描かれる。例えば、リュス・イリラガイはE = mc2 が「われわれがそれなしでは生きていけない他のさまざまな速度をさしおいて特権化する」ゆえに、それが「性化された方程式」であると書いた文章が引用され、批判されている(イリラガイについては「流体力学は不当になおざりにされている、なぜなら流体が女性的であるのに対して、固体は男性的であるからだ」という主張についても批判がされている)[8]。同様に、トポロジーと神経症のあいだにアナロジーを見出すラカンも、ソーカルとブリクモンの見解では何の根拠もなく数学の用語を用いており、「単に間違っているという代物ではない。意味不明なのだ」[9]。
ポストモダニストによる科学の理解
ソーカルとブリクモンは、二人が認識的相対主義と呼ぶ、客観的な真実は存在せず、ただ個々人の信念があるのみだという思想がはびこっていることを強調してやまない。二人によれば、「ポストモダニスト」と呼ばれる人々や科学の社会学におるストロングプログラムの立場をとる人など、多くの人々がこの相対主義を支持しているが、非論理的で地に足がついておらず、危険な考え方である。本書の狙いは、「左派全体を批判することではなく、流行りにのるその一部から左派それ自体を守ること」である[3]。英語版の序文ではマイケル・アルバートの言葉が引用されている。「不正と抑圧への敵意つまり左派と、科学と合理性への敵意つまりナンセンスとを混同することに、正しさや賢さや人間性や戦略性などない」[3]。
受容
ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス編集部のバーバラ・エプスタインによれば、彼女自身はソーカルの悪戯を歓迎したが、人文科学の内部での本書への反応は極端に分かれた。喜ぶ者もいれば、怒りを露わにする者もいた[注釈 1]。読書会を開催すると、熱烈な支持者もいれば、同じくらい熱烈にソーカルを批判する者もあらわれ、まさに二分されたという[注釈 1]。
評価
哲学者のトマス・ネーゲルは、本書を評価した。曰くこの本は「フランスの知識人のネームバリューに頼った、意味不明な科学に関する言辞の膨大な引用で出来ており、なぜそれが無意味なのかについて薄気味悪いほど粘り強く説明してくれる」[10]。さらに、「とりとめない饒舌さをとにかくよしとする、パリ的な風土についての重要な一冊になっているように思われる」と歓迎している。
同じような好意でもって迎えた科学者の一人が、例えばリチャード・ドーキンスである。彼はこの本を取り上げて、ラカンの議論について以下のように評価している。
ソーカルとブリクモンのような数学的な専門知識を持たない者にも、この手の著者が偽物であることを教えてくれる。おそらく彼は非科学的なテーマについて語るときは天才になるのだろう。しかし、勃起性の器官が
この節の加筆が望まれています。アルカーディ・プロトニツキー(ソーカルのパロディー論文でも言及されたカルチュアル・スタディーズの研究者)も本書を論難している[15]。プロトニツキーは「問題になっている数学に関する文章についての主張の一部、とくに複素数に関する記述は不正確だ」と語っており[16]、なかでも「虚数と無理数には何の関係もない」という記述を批判している[17]。彼はラカンの「合理的な数(rational numbers)というアイデアの延長としての虚数」という観点を擁護している。いわく「一般的な概念としてみれば、どちらも古代の数学や哲学に起源をもつが…現代における代数学における概念としても同じことがいえる」[18]。前者については、実数から複素数への拡張は有理数から実数への拡張に酷似しているという事実に言及し、プロトニツキーはライプニッツの言葉を引用している。いわく「無理数から不可能あるいは空虚な数が生まれた。その性質は非常に不思議であるが、その有用性については論を俟たない」[19]。
プロトニツキーも、「マイナス1の平方根」に関するラカンの議論についてはソーカルとブリクモンに同意している(そのためにプロトニツキーは
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「知」の欺瞞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 16:34 UTC 版)
ソーカルとブリクモンは『「知」の欺瞞』の中で、著作の目的を次のように述べている: われわれの目的は、まさしく、王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘する事だ。しかしはっきりさせておきたい。われわれは、哲学、人文科学、あるいは社会科学一般を攻撃しようとしているのではない。それとは正反対で、われわれは、これらの分野がきわめて重要と感じており、明らかに事実無根のフィクションと分かるものについて、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発したいのだ。 — アラン・ソーカル & ジャン・ブリクモン 2000, p. 7 ソーカルによれば、彼ら(ポストモダン思想家)が執筆しているのは科学の論文ではなく、従って彼らの科学用語は比喩としての役割以外のものはない。従ってその厳密な科学的意味を求めても意味はなく、イメージを介して表現しにくい物事を語っているだけである。それは「用語の本当の意味をろくに気にせず、科学的な用語を使って見せる」行為であり、ポストモダン思想家たちは「人文科学の曖昧な言説に数学的な装いを混入し、作品の一節に「科学的」な雰囲気を醸し出す絶望的な努力」をしている。 しかしポストモダン思想家たちの科学的なナンセンスぶりは単なる「誤り」として見過ごすことができるような代物ではなく、「事実や論理に対する軽蔑、といわないまでもひどい無関心がはっきりとあらわれている」。 さらにソーカルは、ポストモダニストの中には、比喩以外の文脈で科学用語を乱用しているものもいると主張する。ソーカルによれば、ラカンは神経症がトポロジーと関係するという自身のフィクションについて、「これはアナロジーではない」とはっきり発言している。また、ブルーノ・ラトゥールも、経済と物理における特権性に関する自身のフィクションについて、「隠喩的なものでなく、文字通り同じ」と隠喩でないことを強調している。また、クリステヴァは、一方で詩の言語は「(数学の)集合論に依拠して理論化しうるような形式的体系」であると主張しているのに、脚注では「メタファーとしてでしかない」と述べている。 ソーカルとブリクモンはこれらの思想家の著作における「科学」がいかにデタラメか繰り返し批判しているが、比喩や詩的表現そのものを批判したわけではなく、批判の焦点は、ポストモダニストが「簡単なことを難しく言うために比喩を使っている」という点にあった。ポストモダン思想家による数学や物理学のアナロジーは、「場の量子論についての非常に専門的な概念をデリダの文学理論でのアポリアの概念にたとえて説明」して失笑を買うようなものだ、とソーカルは述べている。
※この「「知」の欺瞞」の解説は、「ソーカル事件」の解説の一部です。
「「知」の欺瞞」を含む「ソーカル事件」の記事については、「ソーカル事件」の概要を参照ください。
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