カタルーニャ州
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文化
民俗
人間の塔(カステイス)はカタルーニャの象徴の一つとされる組体操であり、結束・団結・努力などカタルーニャ人の民俗的特質を表しているとされる[109]。大きなものでは約150人が参加し、3階建てのビルに相当する約10mの塔を組む[110]。人間の塔は18世紀末にタラゴナ地方のバルスで生まれたとされており[110]、20世紀前半には消滅しかけたものの、1960年代以降にカタルーニャ文化が見直されるようになるとカタルーニャ地方全土に広がった[109]。1990年代にブームが起こり[110]、2010年時点では56のチーム、8,000人が活動しているとされる[109]。2010年には「人間の塔」が、「ベルガのパトゥム」に次いでカタルーニャ地方で2番目の無形文化遺産となった[109][110]。
カタルーニャ人のアイデンティティを表す舞踊としてサルダーナがある[111]。男女が交互になって手を高く上げて繋ぎ、輪を描くようにして踊る[111]。サルダーナはリズムの取り方やステップの踏み方が独特である[111]。サルダーナは激しく情熱的なフラメンコとは対比的であり、闘牛(スペインの象徴)と人間の塔(カタルーニャの象徴)の関係に似ているとされる[110]。フランコ体制下ではサルダーナは禁じられており、20世紀初頭や1970年代末の民主化以後にカタルーニャ精神の象徴であるとする意味合いが込められた[111]。
祭礼
スペイン北部の祭礼には巨人人形が登場することがあり、約3-4mの人形の中に人間が入ってパレードに参加する[111]。バルセロナのマルセーの祭礼では、巨人人形に加えて、ドラゴンやタラスク(亀と蛇が合体した怪物)などの人形もそろって行進し、夜間にはドラゴンやタラスクが爆竹を鳴らし火を噴きながら歩くコラフォックが行われる。
ベルガでは聖体祭にパトゥムという祭礼が行われ、巨人人形やドラゴンに似た怪物や巨人人形がパレードや寸劇を繰り広げる[112][113]。2005年にはカタルーニャ地方で初めて「ベルガのパトゥム」がユネスコの無形文化遺産に登録された[112][113]。
スペインではクリスマスにキリストの降誕の場面を模したベレン(Belén)と呼ばれる立体模型を製作することが多いが、カタルーニャ地方ではこの生誕飾りがパセブラと呼ばれる[114][113]。パセブラには必ずカガネル(排便人形)が飾られ、翌年の豊穣などを祈願する[113]。この時期になると子どもはカガ・ティオー(糞しろ、丸太)と呼ばれる人形を作り、クリスマスに「糞しろ、丸太、糞しろ丸太」と歌いながら人形を棒で叩くと、菓子やおもちゃが貰える[113]。
春季には聖週間や復活祭が行われ、白いシュロ飾りやチョコレート菓子などが登場する[114]。聖木曜の沈黙の行列を行う都市もあり、キリストの受難劇を含む行列を行う村もある[114]。4月23日にはカタルーニャの守護聖人であるサン・ジョルディの祭礼が行われ、人々はバラの花や本を贈りあう[114][113]。夏至の時期である6月23日にはサン・ジュアンの祭礼が行われ、この日には爆竹を鳴らすのが一般的な風習となっている[114]。カタルーニャの象徴であるカニゴー山でたき火を行い、その火をカタルーニャの全自治体の祭礼会場に届けることでカタルーニャ地方の一体感を再確認する日でもある[113]。9月24日はバルセロナの守護聖人であるマルセー(慈悲の聖母)の日であり、この日を中心とする一週間にはコンサート、マラソン、航空ショー、花火など様々なイベントが開催される[111]。11月1日の諸聖人の日と11月2日の死者の日が祝われ、焼き栗などが食べられる[114]。
シンボル
カタルーニャ州は自治州旗(サニェーラ)、国祭日(ディアーダ)、自治州歌(『収穫人たち』)を有している[115]。
金色地に4本の赤線を引いたサニェーラが生まれたのは9世紀末であるとする伝承があり、1150年にはこのデザインがバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の紋章となった[115]。やがてアラゴン=カタルーニャ連合王国の王家の象徴となり、1979年のカタルーニャ自治憲章でサニェーラがカタルーニャ自治州旗とされた[115]。アラゴン州旗にも類似の図柄が採用されており、フランスのプロヴァンス地方の紋章も起源を同じくしている[115]。
毎年9月11日はカタルーニャ国民の日(ディアーダ)と呼ばれる祝祭日であり、18世紀初頭のスペイン継承戦争でバルセロナが陥落した日(1714年9月11日)を由来としている[67][113]。この戦争後にはブルボン朝によってカタルーニャ語の公的使用が初めて禁じられ[113]、カタルーニャ文化は衰退の時代を迎えた。カタルーニャ地方の自由と固有制度の喪失を想起させる日を記念日とすることで、自らのアイデンティティの保持を表明している[115]。1886年に初めてカタルーニャ国民の日が記念され、フランコ体制下でこの記念日は抑圧されたが、1980年にはカタルーニャ州政府によって復活した[116]。カタルーニャ地方各地でスペイン継承戦争の英雄を追悼する行事が行われ、多くの市民がサニェーラなどを揺らす[113]。2012年には約150万人が参加する大規模な独立デモが組織され[67]、このデモによってカタルーニャ独立の機運が高まったとされる。独立支持派により星付きの旗 (アスタラーダ) が使用されることが多い。
様々な行事で「傲慢な人びとよ、立ち去れ!」と歌われる『収穫人たち』は、1993年のカタルーニャ州議会の決議によって自治州歌とされた[115][117][118]。この歌は農民を中心とする民衆が権力者に対抗した収穫人戦争(1640年-1650年)に由来する[35]。
世界遺産
ユネスコの世界遺産にはカタルーニャ州から5件が登録されている。
- アントニ・ガウディの作品群(1984年登録、2005年拡大)
- ポブレー修道院(1991年登録)
- バルセロナのカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院(1997年登録)
- タラゴナの考古遺産群(2000年登録)
- バル・デ・ボイのカタルーニャ・ロマネスク様式教会群(2000年登録)
芸術
音楽
19世紀後半に生まれたエンリケ・グラナドスとイサーク・アルベニスは、スペインの国民学派を代表する音楽家である[119]。グラナドスは演奏活動の傍らで音楽教育者としても成功したが、第一次世界大戦中にイギリス船でアメリカ合衆国に向かう途中、ドイツの潜水艦の攻撃を受けて亡くなった[119]。アルベニスは『スペイン組曲』や『イベリア組曲』などのピアノ曲を書き、音楽家や画家などに多くの友人がいた[119]。フェデリコ・モンポウは「クロード・ドビュッシーの後継者」と呼ばれ、カタルーニャ民謡を用いた曲集やカタルーニャ語の歌曲などを残した[119]。パウ・カザルスは世界最高のチェリストと呼ばれる[120]。カザルスはスペイン内戦勃発後に亡命し、フランス領カタルーニャのプラードで長らく暮らした[120]。プラードではカザルスが中心となったプラード音楽祭が開催されるようになり、『パセブラ』を作曲したのもこの地である[120]。1971年の国連総会ではカタルーニャ民謡『鳥の歌』を演奏し、自身を「カタルーニャ人」であると述べている[120]。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人であるマリア・マルタ・アルゲリッチは祖先は18世紀にカタルーニャ地方からアルゼンチンへ移住していて、アルゲリッチはカタルーニャ発祥の姓である。また古楽演奏の分野ではジョルディ・サバールが名高い。
世界的なオペラ歌手のモンセラート・カバリェとホセ・カレーラスはカタルーニャ地方出身である[121]。カバリェは1965年にアメリカ合衆国で知名度を得て、その後世界的なスター歌手となった[121]。カレーラスはカバリェに見出され、1987年に発病した白血病を乗り越えて活躍している[121]。著名なオペラ歌手を輩出している背景には、19世紀前半に設立されたリセウ音楽院とリセウ大劇場の存在がある[121]。
美術

カタルーニャ地方にアラブの遺跡はほとんど存在しない[122]。11世紀以後にはカタルーニャのキリスト教美術が目覚ましく変化し、カタルーニャ地方のフレスコ画の数と質は西ヨーロッパで際立っているとされる[123]。ロマネスク様式の修道院・教会・大聖堂が数多く建設され、バルセロナ美術館にはいくつものロマネスク絵画の傑作が収蔵されている[123]。ゴシック時代にはカタルーニャ様式と呼ばれる簡素さを好む様式が生まれ、アラゴン=カタルーニャ連合王国の領土であったサルデーニャやナポリなどでもこの様式の特徴がみられる[124]。
政治的背景が理由で1500年頃のルネサンス期のカタルーニャ美術は低調だった[125]。17世紀末にはカタルーニャにバロック美術の波が到来し、特に建築の分野で数多くの作品が残っている[126]。1750年以降にはネオ・クラシック美術の影響が強く、19世紀には建築がロマン主義に移行した。
19世紀後半には大都市の再開発が行われ、19世紀末には特に建築の分野でムダルニズマが花開いた[127]。アントニ・ガウディはサグラダ・ファミリア教会に心骨を注ぎ、リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネーやジュゼップ・プッチ・イ・カダファルクも活躍した[127]。画家ではサンティアゴ・ルシニョールやラモン・カザスが登場し、彼らが開いたカフェ『四匹の猫』ではパブロ・ピカソの初個展が開催された[127]。
スペイン内戦が勃発すると多くの芸術家が亡命してパリや南仏に逃れたが、第二次世界大戦後にはカタルーニャで芸術活動が再開された[128]。1960年代から1970年代には、ジョアン・ミロとサルバドール・ダリという2人のカタルーニャ人芸術家が名声を高めた[128]。1948年にはムデスト・クシャ、ジュアン=ジュゼップ・タラッツ、アントニ・タピエスが美術団体「ダウ・アル・セット」(サイコロにおける7の目)を結成し、後には3人ともに国内外で評価を高めた[129]。タピエスは現代のカタルーニャ美術界の代表的存在であり、様々な素材を用いて精神性や美を追求した[129]。1960年代以降にはカタルーニャの建築界が高い評価を受けており、世界的にウリオル・ブイーガス、リカルド・ボフィルらの名が知られている[129]。
文学

12世紀のカタルーニャ詩人はカタルーニャ語ではなく主にオック語で詩作を行っていた[130]。13世紀に活動したラモン・リュイは「カタルーニャ語の父」と呼ばれており[131]、その内容の豊かさや言語的創造性の高さから普遍的な価値が認められている[130]。14世紀のカタルーニャ地方では散文が優勢となり、フランセスク・アシメニスやビセン・ファレーなどが登場した[132]。15世紀は「カタルーニャ文学の黄金時代」とされ[133]。詩人のアウジアス・マルクや騎士道小説『ティラン・ロ・ブラン』を書いたジュアノット・マルトゥレイなどがバレンシアで活躍した[133]。1479年にスペイン王国が成立した影響で、民衆以外の宮廷や知識人の間ではスペイン語化が進んだ[134]。カタルーニャ地方が政治的・経済的に低迷した16世紀以後にはカタルーニャ文学も停滞し、16世紀から18世紀は「カタルーニャ文学の衰退期」と呼ばれている[134]。
19世紀半ばにはカタルーニャ語とカタルーニャ文化の復興運動であるラナシェンサ(文芸復興)運動が興り[135][136]、「カタルーニャの国民的詩人」と呼ばれるジャシン・バルダゲーや劇作家のアンジャル・ギマラーなどが活躍した[131]。19世紀末にはカタルーニャ・ナショナリズムが勢いを増し[137]、19世紀末から20世紀初頭にはムダルニズマ(近代主義)運動が興った[131]。1930年代にはスペイン第二共和政の教育政策や言語政策にも助けられ、カタルーニャ文学は特に詩などの分野で活況を呈した[138]。スペイン内戦後のフランコ体制ではカタルーニャ語が弾圧され、カタルーニャ語作家はスペイン語作家に転向したり他国に亡命した[139]。1960年代になるとようやくカタルーニャ語文学の出版も可能となり、マヌエル・ダ・ペドロロの『第二創世記のタイプ原稿』はカタルーニャ語文学史上最大の売り上げを記録している[139]。1970年代末の民主化以後のカタルーニャでは詩の分野で優れた作家が多いとされる[140]。
スポーツ
カタルーニャ自治州政府は20世紀初頭からスポーツ振興に力を入れており、各競技のカタルーニャ代表を国際大会に参加させることを目標としている[141]。ローラーホッケーのカタルーニャ代表は暫定的に国際大会への参加を認められているが、その他の競技では国際大会への参加は実現していない[141]。
オリンピック
1931年の国際オリンピック委員会(IOC)総会では1936年の夏季オリンピック開催地が決定され、下馬評ではバルセロナが有力だったもののドイツのベルリンに敗れた[142]。ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー総統はベルリンオリンピックを政治利用しようとしたため、対抗してほぼ同時期にバルセロナで人民オリンピックの開催が企画された[142]。カタルーニャ自治政府に加えてスペイン共和国政府も支援し、23か国から約6,000人の選手が人民オリンピックに参加を申し込んでいる[142]。しかし、開会式当日の7月19日にスペイン内戦が勃発したことで人民オリンピックは中止を余儀なくされた[142]。それから56年後、カタルーニャ人のフアン・アントニオ・サマランチがIOC会長を務めていた1992年に、カタルーニャ色を強く出したバルセロナオリンピックが開催された[142]。
サッカー
FCバルセロナはサッカーやバスケットボールなどの競技チームを持つ総合スポーツクラブであり、サッカー部門は世界戦略を展開する強豪クラブである[143]。マドリードに本拠地を置くレアル・マドリードとライバル関係にあり、両者の対戦はエル・クラシコと呼ばれる。カタルーニャ人にとってFCバルセロナは単なるスポーツクラブに留まらず[143]、クラブの歴史はカタルーニャの歴史と重ね合わされる存在である[144]。ホームスタジアムであるカンプ・ノウは、フランコ体制下でカタルーニャ語の使用が許可された唯一の場所であり、エル・クラシコはカタルーニャと中央政府の代理戦争の意味合いを呈した[145]。FCバルセロナはソシオと呼ばれる会員によって運営されていることが特徴である[146]。
バルセロナにはFCバルセロナの他にRCDエスパニョールというサッカークラブもあり、1930年代初頭のミゲル・プリモ・デ・リベラ独裁時代には独裁体制を支持した歴史がFCバルセロナとは異なる[147]。バルセロナの2クラブ以外にはジローナFC、ジムナスティック・タラゴナ、CEサバデイ、CFバダロナ、UEリャゴステラ、リェイダCFなどのクラブがある[148]。カタルーニャ・サッカー連盟はサッカーカタルーニャ選抜を組織しており、毎年のクリスマス休暇には国外の代表チームなどを招いて親善試合を行っている[149]。
闘牛
カタルーニャの闘牛が初めて文献に登場するのは1387年であり、1834年にはバルセロナにアル・トリン闘牛場が、19世紀末にはより規模の大きなアレーナス闘牛場が、1914年にはアル・スポルト闘牛場(後のムヌマンタル闘牛場)が建設された[150]。20世紀初頭のバルセロナは3つの闘牛場を有する一大闘牛都市であり、その後スペイン内戦からフランコ体制下を経た1970年代まで、ムヌマンタル闘牛場は世界最高の闘牛場だった[150]。バルセロナ以外ではフィゲーラス、タラゴナ、ジローナ、ウロット、サン・ファリウ・ダ・ギショルス、リュレット、ビックなどに闘牛場があり、一方でカタルーニャ地方南部では闘牛ではなくコラボウス(牛追い)が人気だった[150]。
レジャーの多様化、スペイン文化の象徴である闘牛ではないカタルーニャ文化の見直しなどの要因により、1970年代半ばからカタルーニャ地方で闘牛は衰退しはじめた[150]。子供の観戦や闘牛場の新設が禁止されたほか、1989年以降には反闘牛都市宣言を行う自治体が増えた[150]。2009年にはカタルーニャ共和主義左翼(ERC)を中心として闘牛禁止法案がカタルーニャ州議会に提出され、2010年にはこの法案が可決された[150]。ERC、カタルーニャ緑のイニシアティブがこの法案に賛成票を投じ、カタルーニャ国民党とシウダダノスが反対票を投じ、集中と統一やカタルーニャ社会党は党内でも票が割れた[150]。
2011年にはアレーナス闘牛場がショッピングセンターに生まれ変わった[150]。カタルーニャ州の闘牛禁止法は2012年1月1日に施行され[151]、禁止法に関連してタラゴナ県で盛んなトロ・アンブラード(牛の角に松明を付ける祭礼)や牛追いの是非についての議論も沸き起こった[152]。
食文化
カタルーニャ料理はラード中心のスペイン田舎料理と、オリーブオイル中心の地中海料理の双方の要素を併せ持っている[153]。変化に富んだ風土のために食材の多様性が豊かであり、多くの民俗と交流してきた歴史から料理法も豊富である[153]。2011年度のスペイン版ミシュランガイドで三ツ星を獲得したレストランは7軒あったが、うち4軒はカタルーニャ地方のレストランだった[154]。ジローナ県のロザス湾近郊にはフェラン・アドリアがオーナーシェフを務めているエル・ブジがあり、世界の料理界を驚かせた独創的な料理で知られる[154]。
カタルーニャ地方はローマ時代からヨーロッパにおける一大ワイン産地であり[155]、現代のスペインワイン革新の先駆者的な存在であるとされている[156]。 プリオラート (DOQ)はリオハ (DOC)とともにスペインで2つしかない特選原産地呼称(DOC)産地であり[155]、この地方のワインの代名詞的存在としてスパークリングワインのカバがある[157]。今日、この地域のブドウ畑の70%は白ブドウ品種が占めている[158]。
注釈
- ^ 単一居住地域は人口の核の数。たとえば、大都市などはひとつの市全体や自治体を超えて、居住地域が連続的に形成されているが、大都市以外の地域や過疎地域などは、一つの自治体の中にいくつかの集落があり、住民はその集落内において多数の居住人口の少ない極小な居住地区に分散していることがある。その一体となっている居住地域のことで、この数字により該当地域での居住形態などがわかる。
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