エヴァリスト・ガロア 決闘

エヴァリスト・ガロア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 19:01 UTC 版)

決闘

陰謀説

弟アルフレッドによるガロアの肖像画

ガロアが起こした決闘の原因はある女性の名誉を守るためといわれていたが、忠実な共和党員であった彼の死は、反動派か秘密警察によるものという説もあった。その中でも有名なのがレオポルト・インフェルト1948年の著書『神々の愛でし人』(Whom the gods love)である。その根拠としてインフェルトは、以下の点を挙げている。

  • ガロアの弟アルフレッドは、生涯にわたり兄エヴァリストは謀殺されたと主張していた
  • ラスパイユによれば、1831年7月29日、ガロアが収監されていた部屋に銃撃された事があった
  • 介添人がいたにも関わらず、決闘で負傷して倒れたガロアはそのまま放置されていた
  • 当時の警視総監アンリ・ジョゼフ・ジスケ(fr)が1840年に著した回顧録において、当時ガロアの葬儀の際に蜂起しようと共和主義者が計画していたところを事前に察知して検挙した事実を記録している

しかしながら、インフェルトは自説に都合の悪い箇所はわざと隠していた。デュピュイがガロアの親族から聞いた言い伝えによれば、ガロアは恋愛相手の女性の叔父と許婚を自称する2人の人物から決闘を申し込まれた。ガロアの遺書によれば、2人は愛国者であった。またアレクサンドル・デュマは回顧録において、ガロアは「民衆の友の会」の一員であるペシュー・デルバンヴィルという人物によって決闘で殺されたという一文を残している。これらの資料を基に、インフェルトはデルバンヴィルが決闘によってガロアを殺したスパイであったと記述している。だが、共和主義者の秘密結社に潜入していた警察側のスパイの正体は、1848年2月革命の折に、そのスパイの1人であったルシアン・ド・ラ・オッドによって全て暴露された。その時、デルバンヴィルはフォンテーヌブロー城の管理という重要な役目を任されており、彼がスパイだったということはあり得ないとデュピュイは記している。

さらに、ガロアがサント・ペラジー刑務所において「僕はつまらない色女のために、決闘で死ぬこととなるだろう」という自分の将来に対する予言がラスパイユの獄中記に書かれていた事実を、インフェルトは意図的に自身の作品に書かなかった。なお、この決闘にまつわるガロアの親族の言い伝えは不自然な点が含まれるため、いずれもアルフレッドの創作ではないかとデュピュイは推理している。

インフェルトがこのような作品を記したのは、自身の祖国ポーランドナチス・ドイツの侵攻を受け、ガロアに自身の姿を重ね合わせたためと思われる。なお、インフェルトは伝記の文頭と文末に、新しい証拠が発見されて真相がさらに明らかとなる可能性は極めて疑わしいと述べている。だが、後述の通り、その予想は14年後に覆される事となった。

新資料の発見

1962年アメリカ合衆国ニューヨーク州イサカ科学史の国際会議が行われた時、ウルグアイの数学者カルロス・アルベルト・インファントッシによって、決闘の原因と言われていた女性の素性が明らかとなった。彼女の名はステファニー・フェリス・ポトラン・デュ・モテル(1812年5月11日 - 1893年1月25日[16]といい、ガロアが最後に暮らしたフォートリエ療養所の医師で所長だったジャン・ルイ・ポトラン・デュ・モテルの娘であった。彼らは親子共に親切な人物で、ガロアは次第にステファニーに恋愛感情を抱くようになって求婚したらしく、それに対する5月14日付でのステファニーによる断りの手紙の文面が、ガロア自身の筆跡でシュヴァリエへの書簡の裏に転記されていた。その内容は文面を見る限り礼儀正しいものであり、少なくとも残された文章を見た印象では彼女が「つまらない色女」と表現されるような人物などではなく、そもそもガロアの遺書自体が真実を記したものとは言い切れないことも明らかになった。なお、ステファニーは1840年1月11日に言語学者のオスカー・テオフィル・バリューと結婚している[16]

1993年イタリアの数学史研究家ラウラ・トティ・リガテッリはガロアの生涯に関する著書『バリケードの中の数学』(Matematica sulla barricate)を発表した。彼女は新資料として、ガロアの死に関する記事が掲載された、1832年6月1日付のリヨンの新聞『先駆者』(Précurseur)を挙げている。記事にはガロアの年齢を22歳であったとか、ルイ・フィリップ乾杯事件で有罪になったなどの誤記が含まれるものの、文章自体は良くまとまったものであった。その記事によれば、ガロアはかつて同時に法廷に出たことのある友人「L.D.」によって殺され、その際は用意した拳銃の片方にだけ弾丸を込め、くじを引いてどの拳銃を使うかを決めたということである。なお前述の通り、ガロアと一緒に法廷に出た人物といえばデュシャートレしかいない[17]。その上でリガテッリは、決闘であるならば勝つ可能性もあるのに、ガロアの死を確信した遺書に対する不自然性を指摘し、決闘の真相を次のように解釈している。

ステファニーに失恋したガロアは、「民衆の友の会」の会員と共に民衆を蜂起させる方法を考えていた時、ガロアが自分が犠牲となってその機会を作ることを提案した。(作中では「D」と名前を明確にしていないが)デュシャートレがその相手を務めることとなり、ガロアは共和主義者の感情を煽るためにわざと無念を強調した遺書をしたためた。そして、予定通り決闘を装った工作が行われてガロアは死亡し、あとは葬儀において蜂起するだけとなった。ところが葬儀の当日、フランスの英雄であるジャン・マクシミリアン・ラマルク将軍の訃報が伝わり、ならばそれを契機に蜂起した方が良いと急遽予定が変更された、ということである(その後に起きた六月暴動の様子はヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に詳しい)。

  1. ^ ただしその原因は、後述の通りガロア自身によるところも大きい。
  2. ^ フランスの学制では始業は9月からで、進級する度に3年、2年、1年と年次が減っていく。
  3. ^ リシャールは他にもユルバン・ルヴェリエシャルル・エルミート、ジョゼフ・セレー(fr)の才能も見出している。
  4. ^ コーシーはそれ以前にもアーベルの論文をまともに取り合わなかった。
  5. ^ 加藤(2010) [要ページ番号]
  6. ^ ただし数学者ジョゼフ・ベルトラン(fr)はこの伝説を否定している。
  7. ^ この論文が後に「ガロア理論」として名を残す。
  8. ^ デュピュイはこの手紙の存在に言及していない。
  9. ^ フランス革命の際に自警団の役割を担って市民の間で結成された。
  10. ^ 国民軍は再結成されていたものの2人は登録していなかった。
  11. ^ ガロアの方が刑が重いのは、問題のナイフを所持していたためである。
  12. ^ ガロア理論の「原始的方程式」への応用や楕円関数に関するモジュラー方程式の考察、リーマン面理論の超越関数理論への応用と推察されている。
  13. ^ 佐武一郎「解説「ガロア理論」について」、アルティン(2010) p. 215
  14. ^ デュピュイの調査では、ルイ・ル・グラン及び師範学校でのガロアの学友フロジェルグが記したとの証言がある。
  15. ^ 彼女が長寿であったため、デュピュイがガロアの親族を探し出すのは比較的容易であった。
  16. ^ a b Courcelle, Olivier (2018年5月14日). “Itinéraire d'une infâme coquette” (フランス語). Images des mathématiques. CNRS. 2019年4月30日閲覧。
  17. ^ ただし彼のイニシャルは「V.D.」である。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エヴァリスト・ガロア」の関連用語

エヴァリスト・ガロアのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エヴァリスト・ガロアのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエヴァリスト・ガロア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS