ぎょうせい‐がく〔ギヤウセイ‐〕【行政学】
行政学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/03/29 03:45 UTC 版)
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行政学(ぎょうせいがく)は、主として行政の仕組み・作動・制度・管理・政策を研究対象とする学問領域であり、日本では主として政治学と強く結びつきながら発展してきた。行政学は、19世紀末のアメリカ合衆国において、ウッドロウ・ウィルソンの論文「The Study of Administration」(1887年)などを一つの画期として成立したとされる[1][2][3]。
概要
西尾勝によれば、行政学は、近代国家から現代国家への移行のなかで、現代国家に必要な行政体制を整えるという課題に応えて形成された[1]。また、西尾は行政学の主要な対象領域を、制度・管理・政策の3つに整理している[4]。
行政学の対象となる「行政」は、単なる法の執行にとどまらず、行政組織の編成、官僚制の作動、公務員制、政策形成と執行の関係、中央政府と地方政府の関係など、広い射程をもつ[5][3]。
また、行政学は政府活動の実施や調整だけでなく、その計画・組織化・指揮・統制のあり方を研究対象とし、効率性に加えて、公共サービスへの応答性、公正、市民参加といった価値にも関心を向けてきた[6]。
環境変容と行政学
1990年代以降、行政学は、従来の中央政府官僚制を中心とする見方だけでは捉えきれない変化に直面している。グローバル化、行政サービス供給主体の多元化、市民参加や協働の拡大などにより、行政研究の関心は、行政機構それ自体の分析に加えて、多機関連携やガバナンスの問題にも広がっている[7][8]。
行政サービスの発展
古代・中世の政治支配
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古代と中世において政治支配者の果たすべき統治の職能は、領土と人民を外敵の侵略から守ること(国防)、犯罪を取り締まること(警察)、争いごとを裁くこと(裁判)の3点にほぼ限られていた。政治支配者はこれを保障することの対価として人民に賦役を課し(徴兵徴税)、この権力によって兵力を保持していた。また、この権力を背景にして王宮、神殿・寺院、墳墓を建立し(公共建築)、これらを権威の象徴にして、人民に君臨していたのである。以上の他にまだ統治の職能があったとしても、それはせいぜいのところ、旱魃・洪水などの自然災害から農耕を守ること(治山治水工事)程度であった。
近世の殖産興業政策と官房学
重商主義と富国強兵
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中世封建制の支配体制が崩れ、絶対君主を政治支配者とする中央集権体制の国民国家が形成され始めた近世の時代に入ると、各地の絶対君主達は富国強兵を競い合うことになり、ここに重商主義または重農主義の政治思想に基づく殖産興業政策が推進されていった。統治の職能は次第にその範囲を広げ始め、これを担う新しい人材として官僚が登場した。
官房学
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この近世の時代に、ヨーロッパ大陸諸国、なかでもかつては神聖ローマ・ドイツ帝国の支配領域に属していたドイツ・オーストリア地域において、君主と官僚のための学問として隆盛を極め、富国強兵を支えたのが、官房学であった。
近代国家の自由放任主義
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しかしながら国家の職能は、近世の絶対君主による殖産興業政策以来、今日までただひたすら拡大の一途を辿ってきたのではない。その間に一度揺り戻しの時期があったのである。すなわち絶対君主制の下でやがて資本主義経済が発達し、いわゆる市民階級(ブルジョワジー)が登場するようになると、国家による殖産興業政策が彼らによって批判されるようになった。それは「国内産業を保護する関税政策をはじめとして、産業を保護、助成、振興するために行われていた国家による各種の規制・介入措置が、産業の自由な展開を制約し、かえって経済の発展を阻害している」とする批判であり、「国家は市民経済に対する不必要な規制・介入をやめ、市民社会の側の自由な活動を許容すべきなのであって、そうしたほうがむしろ、資本主義経済を伸び伸びと発展させ、国を豊かにする早道である」という主張であった。
このような新しい思潮のことを、その当時フランスで流行していた言葉「レッセフェール」を取って自由放任主義と呼ぶ。この自由放任主義の思潮を自由主義経済の理論にまで高め、「神の見えざる手」による市場の自動調整作用について説いた古典著作が、イギリスのアダム・スミスの『諸国民の富』(1776年)であった。
安上がりの政府
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自由放任主義が一世を風靡していた時代のイギリスでは、国家の果たすべき職能はあたかも警察官が夜間の街頭を巡回して市民生活の安寧を守ることに尽きるかのごとき俗論も横行していた。そこで、このような通俗的な国家観のことを夜警国家論と揶揄していた論者もあった。国家の職能は国防・警察・裁判に限られるべきとするのは、いささか極論であったにしても、資本主義経済の先進国であった当時のイギリスでは「国家は安上がりであればある程良し」とする主張が支配していた。そこで、この種の国家観のことを「安上がりの政府」論と呼ぶのが通例になっている。1801年にアメリカ合衆国第三代大統領に就任したトーマス・ジェファーソンのことば「最小の行政こそ最良の政治なり」も、この国家観を表している。
この種の自由放任主義の思潮は、イギリスに典型的であったが、程度の差はあれ、市民革命を経て立憲君主制または近代民主制の政治体制に移行したヨーロッパ大陸諸国にまで広く普及して行き、これが国家の職能の拡大に歯止めをかけていたので、近代国家の職能範囲は一般に、今日の現代国家のそれに比べればまだはるかに狭いものに留まっていた。
職能国家への変遷
産業化と都市化
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ところが、西欧諸国の政府は19世紀半ばから末にかけて、いずれも産業化と都市化に起因するところの新しい社会問題・都市問題への対応を余儀なくされ、再びその職能の範囲を広げていくことになったのである。すなわち、農村から都市に流入してきた貧民の救済に着手し、コレラ・チフスの蔓延を契機にして上下水道の整備を始めた。やがてスラム住宅の改良、工場労働者の保護義務教育の充実、電気・ガスの供給、都市交通事業の経営、社会保険制度の創設などを進めていったのである。産業活動についても、一方ではこれが国民生活に及ぼす危害を防止するためにきめ細やかな規制措置を講ずると共に、他方ではこれを保護、助成、振興するための国策を幅広く実施していくようになった。このような「近代国家から現代国家へ」の漸進的な移行過程に国家の職能=行政サービスの範囲・規模に生じた変化について、アングロ・サクソン系諸国では「安上がりの政府から職能国家へ」の変化として捉え、そしてヨーロッパ大陸諸国では「消極国家から積極国家へ」の変化として要約することが多い。
福祉国家の生成
大衆民主制
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西欧諸国における政府の職能=行政サービスの拡大傾向は20世紀に入って以降さらに一段と加速され、政府の財政規模と公務員数を膨張させた。だが、それはもはや単なる量の膨張に留まるものではなく、次第に質の変化も伴い始めていたのである。すなわち、福祉国家への旅立ちであった。もっとも、何をもって福祉国家と呼び、その起点をどの時期に求めるべきかという点については諸説入り乱れていて定説はないが、ここでは、福祉国家への起点を19世紀から20世紀への世紀転換期に求めたい。
その理由は、おおむね各国で下記のことがあったからである。
- 労働組合が結成され、労働運動が活発になり、階級対立が激化してきたこと。
- これに伴い選挙権が徐々に拡張され、ついには成人男性全てに選挙権を付与する普通平等選挙制度が施行されたこと。
- 選挙権の拡張によって新たに有権者となった国民大衆の支持を獲得するために、各党は競って社会政策・労働政策・産業政策を政策綱領に掲げ、これを政党政治の主要な争点にするようになったこと。
要するに、政治制度における大衆民主制の実現こそが、現代国家をして福祉国家への道に歩み出させたもっとも基本的な契機であったと考えるのである。
世界大戦と大恐慌
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そうはいうものの、現代国家がその後も福祉国家への道を歩み続け、もはや後戻りの利かないところまで来てしまったのは、20世紀前半に起こった様々な事件がこの動向を促進してしまったからであった。まず何よりも第一次世界大戦と第二次世界大戦という二度にわたる戦争と、両大戦の戦間期に起こった1929年以来の大恐慌という3つの事件の影響である。両大戦に参戦した国々は、総力戦を戦い抜くために国家総動員体制や挙国一致体制を敷いて、広く国民各層の参加と協力を調達することに努めざるを得なかったが、この戦時行政は国民各層への行政サービスの平準化を進めていく結果になったのである。そして、この時の大恐慌ほどに、市場のメカニズムに対する信頼感を根底から揺るがし、政府の政策構想の基調を一変させた事件は他にない。
資本主義体制と社会主義体制の体制間競争
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この間にロシアに社会主義体制の国が誕生したために、これとの対抗上、資本主義体制の国々の側でも分配の不公平をある程度まで是正することを余儀なくされたという体制間競争の要因も、もう一つの要因であった。
福祉国家の要件
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1. 生存権の保障を国家の責務として受け入れ、2. 所得の再分配を国家の当然の権能として考え、3. 景気変動調節のために市場経済に積極的に介入するようになった国家のことを福祉国家と呼ぶ。
生存権の保障
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第二次世界大戦後に制定された日本国憲法25条1項は「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めている。この種の生存権の保障条項を憲法典に最初に規定したのは、ワイマール共和国憲法であった。そして生存権、生活権の保障をもって、あるいは社会権の保障をもって国家の責務とする憲法思想は、以後急速に普及した。この憲法上の規範はベヴァリッジ報告(1942年)が用いたナショナル・ミニマムによって媒介され、個別政策領域ごとの目標水準まで具体化されていくことになった。
日本における行政学
日本における行政学は、行政の仕組みや作動を研究対象としつつ、とりわけ官僚制や政官関係の分析と強く結びついて発展してきた。日本では行政が単なる法執行ではなく政治的意思決定にも深く関与してきたことから、行政学は政治学との近接性を強く有してきたとされる[5]。
戦後日本の行政学では、戦前の官僚制と戦後体制との関係をどう理解するかが重要な論点となった。村松岐夫は『戦後日本の官僚制』において、戦後日本政治をみる視点として「戦前戦後連続論」と「戦前戦後断絶論」を整理している[9]。
また、日本行政学会は1950年11月に設立され、年次総会・研究会の開催や『年報行政研究』の刊行を通じて、日本における行政学研究の基盤を形成してきた[10][11]。
脚注
- ^ a b 西尾勝『行政学(新版)』有斐閣、2001年、1頁。
- ^ “The Study of Administration”. Teaching American History. 2026年3月29日閲覧。
- ^ a b “public administration”. Encyclopaedia Britannica. 2026年3月29日閲覧。
- ^ 西尾勝『行政学(新版)』有斐閣、2001年、50-53頁。
- ^ a b 林嶺那 (2021年). “日本の公共部門における昇進研究”. J-STAGE. 2026年3月29日閲覧。
- ^ “Public administration - Principles, Governance, Policy”. Encyclopaedia Britannica. 2026年3月29日閲覧。
- ^ “日本の行政学は「新自由主義」をどのように捉えてきたのか”. J-STAGE (2022年). 2026年3月29日閲覧。
- ^ “Governance - Public Policy, Regulation, Accountability”. Encyclopaedia Britannica. 2026年3月29日閲覧。
- ^ “日本の行政機構改革―中央省庁再編の史的変遷とその文脈―”. 国立国会図書館 (2015年). 2026年3月29日閲覧。
- ^ “日本行政学会”. 日本行政学会. 2026年3月29日閲覧。
- ^ “刊行物”. 日本行政学会. 2026年3月29日閲覧。
参考文献
- ローレンツ・スタイン『行政學』渡邊廉吉譯、信山社出版、2007年。
- ローレンツ・スタイン『行政學』渡邊廉吉譯、元老院、1887年。
- 西尾勝『行政学(新版)』有斐閣、2001年。
関連項目
外部リンク
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