ENIAC演算装置の試作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 14:46 UTC 版)
城を中心とし、学生であった牧之内三郎や安井裕らが制作・実験にあたった。それまで真空管の利用と言えばアナログ動作のアンプなどであり、いわゆるスイッチング動作をさせて使う例はほとんどなかった。電気を専門とする教授たちに聞いて回ってもわからなかった。1949年ごろ、友人 の物理学者に、ガイガー=ミュラー計数管につなぐカウンターが真空管による装置だと教わり、「トリガ回路」(これこそ今で言うフリップフロップであった)を使うことを突きとめた。通常のアナログ動作では、信号があまり歪まないようにするために入力電圧の範囲を押さえて出力電圧の範囲を絞って動作させる。あるいは負帰還を掛けて増幅器としての直線性を良くする。しかしこれを真空管の出力電圧の範囲を増幅器としての非線形性は考慮せずに両極端にまで振り切る飽和増幅回路方式は、これまでに試みたことがない方法であった。これを使い、ANDゲートやORゲートの実験をした。さらに真空管を多量に入手することも大きな問題で、たまたま近くの大阪陸軍造兵廠(当時大阪帝国大学工学部は東野田にキャンパスがあり近くの大阪城内に爆撃を受けて廃墟となって残っていた造兵廠があった)の残務整理のため真空管を無料で払い下げるとの話を聞き込み、喜び勇んで100本を申し込んだ。ところが当時真空管を10本も使えば大規模な機器であり、そんなに大量に使うのは非常識だと笑われたという[要出典](?戦前から民生品として市販されていたラジオにも高級なものには輸入品などで5球や6球のスーパーヘテロダイン方式のものが存在するなどあり、大学の研究用部材としての入手に際して10本が大規模な機器であり100本程度は非常識だというこの話にはかなり疑問を感じる)。 さらに「ニューズウィーク」誌の記事以上にENIACについて技術的に詳しく知る必要もあった。特に(アナログ方式ではなくて)デジタル方式で演算装置を構成するための詳細を知る必要があった[要出典]。そこで連合国軍最高司令官総司令部によって東京・日比谷に開設されたばかりのCIE図書館に通うことにした。ここには「IRE」や「エレクトロニクス」などの最新の学術雑誌が多く揃っていた。城らは大阪から東海道本線の夜行列車に乗り込み、早朝東京に着いて開館と同時に図書館に入り、資料を調べるということを繰り返した。しかしコピー機などはない時代のため、文献は手書きで、写真はトレーシングペーパーでと、カメラを使って複写する企業の研究者を横目に悪戦苦闘したという。 そしていよいよ文献 にある1桁分のブロック線図に基づき、演算装置の設計・組み立てを行い、ついに1950年、10進方式で4桁の加減算ができる演算装置を完成させた。このモデルではENIACと同等の200μ秒で加減算を行うことができた。城らはこの成果を「計算機械」と題する単行本にまとめ、1953年に発刊した。7章のうち、第5章26ページをさいて、ENIACの回路動作の詳細を解説し、次いで自作の演算装置を紹介した。当時この分野唯一の成書であった。この試作品は1970年に開催された大阪万博において、日本で最初のコンピュータとして展示された(この試作品は現在豊中市石橋にある大阪大学総合学術博物館に展示されている)。
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