ENIACの評価
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ENIAC以前の計算機械は、アナログ式であったり、機械式、電気式で、摩耗の問題もあり、性能にも限界があった。後に一般的になるいわゆるノイマン型コンピュータに至らぬ点もあれど、ENIACは電子回路の力で高速に計算をする、画期的な計算機械であった。 ENIACがアメリカで開発されている頃、日本では戦争による情報鎖国の厳しい状態にあった。そしてこのENIACの開発をいち早く知り、電子計算機に取り組んだのが城であった。大阪帝大工学部精密工学科教授の職にあった彼は、1946年2月18日付の「ニューズウィーク」誌でENIACと劇的な出会いをする。そこにはENIACについて「難問を解く天才が現われた」との1ページ足らずの簡単な記事と写真とがあった。さらに2月25日の「タイム」誌にも科学欄に同種の記事があった。実際城がこれらを見たのは発行時ではなく少し後だったとされる。 数学機器を教えていた城は、数学的に問題を高速で機械的に解く必要性を強く感じていたが、そうしたときこのENIAC開発を知った。彼は「米国の新式飛行機や原爆の蔭にこうした機器があり、戦争の如き極度に多質・大量の計算を要求される時代に、原始的な算盤のみしか知らぬ国はみじめになる」[要出典]と、敗戦間もないこの頃彼我の技術差を見せつけられる思い[要出典]であった。そして1947年に増進堂より出版した自著「数学機器総説」にENIACを紹介した。この書籍の大部分はそれまでの研究の成果である機械式計算機や面積計、それに調和解析機などが占めていたが、そこに3ページをさいて「電子計算機の出現」という小項を設け、ENIACの性能機能を紹介した。そしてその結びとして「これまでの驚くべき統計機械も過去のものとなる。心憎いまでのこの計算機の発達を、今我々は率直に褒め、敬意を払い、驚き、そして学ばなければならない」と最大の賛辞を与えている。その後の発達をみればこの発言も当然であろうが、その大きさ・寿命・速度・使い勝手どれをとっても実用からほど遠い[要出典]このENIACを高く評価した彼の深い経験と先見の明が窺われる[要出典]。
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