ENIACプログラマとしてのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 23:22 UTC 版)
「キャスリーン・アントネッリ」の記事における「ENIACプログラマとしてのキャリア」の解説
The ENIAC Programmers (As Told By U.S. Chief Technology Officer Megan Smith) この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 ENIACは、1943年から1946年にかけて、計算手が手動でやっていたのと同じ弾道計算を実行する目的で開発された。1945年6月、アントネッリは、他の4人の女性計算手とともに、ENIACの最初のプログラマの1人に選ばれた。他の4人は、ベティ・スナイダー、マーリン・ウェスコフ、ルース・リターマン、ヘレン・グリーンマンである。グリーンマンが訓練のためにアバディーンに行くことを拒否し、その代替要員としてベティ・ジーン・ジェニングスが選ばれた。5人はアバディーン性能試験場で1945年6月から8月まで、ENIACの入出力装置として使用されるIBMのパンチカード装置の使用方法についての訓練を受けた。その後、アントネッリの大学の同級生であり計算手であったバイラスが、ムーア・スクールのENIACプログラマのチームに加わったが、彼女はアバディーンでの訓練は受けなかった。ENIACは弾道計算を約10秒で完了することができるが、プラグとスイッチを介してコンピュータに新しい問題をセットアップ(プログラミング)するのに1〜2日かかることがよくあった。各問題について、ENIACをプログラミングするために必要な一連の手順を決定するのは、コンピュータプログラマの責任だった。彼女たちはアーサー・バークスらENIACのエンジニアと相談して、早い段階でENIACのプログラミング方法を決定した。 ENIACのプログラミングには、サブルーチン、入れ子構造のループ、データの格納場所と処理のジャンプ先の間接アドレス指定が使用された。ENIACのプログラミング作業中に、アントネッリはサブルーチンを発明をした。軌道計算のための十分な容量がないという問題を解決するためのアイデアとしてアントネッリが提案したと、後に彼女の同僚であるジーン・ジェニングスが回想している。チームはこの機能の実装に協力した。 当初、ENIACは機密プロジェクトであったため、プログラマは部屋に入って実際の装置を見ることができず、隣接する部屋でプログラムを実行するための設計図を見ることしか許されなかった。ENIACのプログラミングでは、軌道計算に関係する微分方程式をENIACで許容される精度に離散化し、適切な電子回路に振り分けて並列計算した。各命令は1/5000秒以内に正しい場所に到達する必要がある。プログラマは紙の上でプログラムを作成してから、ENIACルームに入って装置を物理的にプログラムすることができた。 ENIACのプログラミングにかかる時間の大半は、システム全体の整合性を保証するテストプログラムのセットアップと実行で占められていた。問題を実行する前に、テストプログラムで全ての真空管や電気接続を検証する必要があった。 1947年半ばにENIACがアバディーンの弾道研究所に移された際、アントネッリも一緒に移動した。リターマンとバイラスもともに移動したが、他の3人はフィラデルフィアに残ることを希望した。
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