806年のアッバース朝軍の侵攻とは? わかりやすく解説

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806年のアッバース朝軍の侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:22 UTC 版)

アッバース朝の小アジア侵攻 (806年)」の記事における「806年のアッバース朝軍の侵攻」の解説

ハールーンはアリー・ブン・イーサー・ブン・マーハーンの総督地位追認してホラーサーンにおける問題の処理を終え805年11月西方帰還しシリアパレスチナペルシア、およびエジプトから人員集め翌年大規模な報復遠征への準備始めたイラン北部出身歴史家であるタバリーによればハールーンの軍は135,000人に達す正規部隊加え志願兵戦時略奪目的参加者存在していた。この数値は、アッバース朝時代全体通してそれまで記録されたものとしては優に最大となる規模であり、これはビザンツ帝国軍(英語版全体推定される兵力のおよそ半分規模相当する135,000人という数字や、さらに非常に大きな数字であるビザンツ帝国年代記作家テオファネスによる300,000人という主張確かに誇張されているものの、それでもなおアッバース朝軍の規模の大きさ示している。同時に海軍提督のフマイド・ブン・マアユーフ・アル=ハジューリー(英語版)の下で、キプロスへの襲撃準備進められた。 大規模な遠征軍は、806年6月11日カリフ先頭にしてシリア北部ラッカハールーン住居より出発したタバリーは、ハールーンが「信仰巡礼者のための戦士」(アラビア語ではガーズィー(英語版)とハッジ)と印され帽子被っていたと記録している。アッバース朝軍隊ハールーンタルスース再建命じていたキリキア通過しキリキアの門(英語版)(キリキア低地平野アナトリア高原を結ぶトロス山脈の峠)を越えてビザンツ領のカッパドキア入ったハールーン当時放棄されていたとみられているティアナ向かい、そこでハールーン作戦基地設置始め、ウクバ・ブン・ジャアファル・アル=フザーイーに町を再建してモスク建設するように命じたハールーン副官のアブドゥッラー・ブン・マーリク・アル=フザーイー(英語版)がシデロパロスを占領し、そこからハールーン従兄弟であるダーウード・ブン・イーサー・ブン・ムーサーが、(タバリー数字によればアッバース朝軍の半数となる約70,000人を引き連れ略奪のためにカッパドキア中央部移動した別のハールーン将軍であるシャラーヒール・ブン・マアン・ブン・ザーイダが「スラヴ人要塞」(Hisn al-Saqalibah)と再建されたばかりのテバサ(英語版)の町を占領し一方でヤズィード・ブン・マフラドが「の砦」(al-Safsaf)とマラコペア(英語版)を占領したアッバース朝軍はアンドラソスを占領し、キジストラ(英語版)を包囲下に置いてアンキュラまで到達したが、これを占領することはなかった。 ハールーン自身残り半分部隊とともに西へ向かい8月または9月1か月間にわたる包囲戦の末、頑強な要塞都市であったヘラクレア英語版)(ヘラクレア・キュビストラ)を占領した。町は略奪徹底的な破壊を受け、住民奴隷にされてアッバース朝の地へ強制的に連行された。アラブ年代記作家たちは、ヘラクレア陥落ビザンツ帝国対すハールーン遠征における最も重要な成果であると考えており、ニケフォロス1世対すハールーン報復攻撃物語における中心的な出来事となっている。歴史家のマリウス・カナール(英語版)が述べているように、「アラブ人にとってヘラクレア占領は、838年アモリオン破壊と同じ程の強い影響与えた」。しかし、この都市実際重要性に関する認識ビザンツ側とは完全に食い違っている。実際にビザンツ資料では、ハールーン806年軍事行動中に占領された他の要塞比較してヘラクレア陥落を特に重要視していない。同じ頃、キプロスにおいて海軍提督のフマイドが島を略奪して地元大主教捕虜を含む約16,000人のキプロス人をシリア連行し連行した者たちを奴隷として売りさばいた兵力上回るブルガリア帝国背後から脅かされていたニケフォロス1世は、アッバース朝軍の猛攻対抗することができなかった。ニケフォロス1世は自ら軍隊率い、敵の孤立した分遣隊に対していくつかの小規模な戦闘勝利を収めたものの、アッバース朝軍の主力部隊からは距離を置いていた。結局アラブ軍がビザンツ領土ティアナで冬を越すという厳しい状況となる可能性残したまま、ニケフォロス1世はシンナダの主教ミカエル英語版)、グライオン修道院院長ペトロス英語版)、そしてアマストリス(英語版府主教執事であるグレゴリオス三人聖職者使者として派遣したハールーン毎年貢納テオファネスによれば30,000タバリーによれば50,000ノミスマ金貨)と引き換え和平同意したものの、ニケフォロス1世後継者である息子スタウラキオスは、カリフに対してそれぞれ3枚タバリー説明ではそれぞれ42枚)の金貨屈辱的な人頭税ジズヤ)として支払うことになった。さらに、ニケフォロス1世破壊された砦を再建しないことを約束したその後ハールーンはいくつかの包囲行っていた部隊呼び戻しビザンツ帝国領域から撤退した

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